第二章 音のない証言
同じ日の夜。カフェ「凪」。
森下花は、白杖を壁に立てかけ、コーヒーカップの位置を指先で確かめていた。この店を選ぶ理由はいつも同じだ。店主が、彼女のために毎回同じ場所にカップを置いてくれる。世界には、そういう些細な優しさでしか成立しない安心がある。
花が視覚を失ったのは十二年前、二十三歳のときだった。網膜色素変性症という、進行性の病気だった。最初はゆっくりと視野が狭まり、やがて光さえもほとんど感じなくなった。花は、その変化を「世界が少しずつ、静かに手を離していくような感覚だった」と表現することがある。だが同時に、彼女は失われていく視覚と引き換えに、驚くほど鋭敏になっていく聴覚と触覚を、自分自身の中に見出していった。
診断を受けた当時、花は音楽教室でピアノを教えていた。視力を失えば、その仕事も続けられないだろうと、周囲は――そして花自身も――思っていた。だが、実際には、彼女は視覚を失っていく過程で、鍵盤の位置を、指先の記憶だけで正確に捉える能力を、むしろ研ぎ澄ませていった。今では、彼女の生徒たちの中には、花が「見えていない」ことに、レッスンの途中まで気づかない子どもも少なくない。
「先生は、耳がすごいから、間違えてもすぐわかっちゃうんだよ」
ある生徒がそう言ったとき、花は初めて、自分の障がいを「劣ったもの」としてではなく、「違う形の感覚」として、誇らしく思えるようになった。
この街の音を、花は地図として記憶している。駅の改札を抜けたときの反響音、商店街のアーケードの下で足音がわずかに変わる場所、横断歩道の誘導音の周波数――それらすべてが、彼女にとっての「視界」だった。
「花さん、聞きました? 駅の事故」
店主の声に、花は小さく頷いた。
「田辺さんでしょう。会釈だけの仲だったけど」
事故の前夜、彼女は駅の改札近くで、聞いたことのない音を耳にしていた。
低く、規則的な、機械的な音。「ヴー……ヴー……」という振動音。エレベーターでも券売機でもない。目が見えなくなって十二年、この駅の音は地図のように頭に入っている。だからこそ、その異物感は確信に近かった。
花はその音を、正確に十八秒間、聞いた。時間の感覚もまた、彼女の中では鋭敏になっている。目に頼れない分、彼女は自分の内側にある「体内時計」を、無意識のうちに研ぎ澄ませてきた。
その夜、花は、いつものように白杖のリズムに合わせて改札への道を歩いていた。杖の先が、点字ブロックの突起を捉えるたびに、彼女の頭の中には、正確な距離と角度の情報が積み重なっていく。改札まであと十二歩、そこから左に曲がって九歩――その計算の途中で、あの異音が割り込んできたのだった。
翌朝、彼女は駅員にそれを伝えた。
「そのような装置は、この駅には設置されておりません」
丁寧で、なめらかで、なにより――聞く気のない声だった。花はその手の声を、嫌というほど知っている。役所の窓口で、病院の受付で、電車の中で見知らぬ人から向けられる、"あなたの言うことは、たぶん間違っている"という前提で発せられる声。
花は、駅員にもう一度、丁寧に説明を試みた。「機械音というのは、具体的にどんな音でしたか」と聞かれ、彼女は音の高さ、間隔、持続時間を、できる限り正確に言葉にしようとした。だが、言葉にすればするほど、その説明は、かえって「曖昧なもの」として処理されていくように感じられた。目に見える証拠を持たない訴えは、この街では、常に「気のせい」として片づけられる運命にあるのだと、花は改めて思い知らされた。
数日後、聞き込みに来た磯川に、花は同じ話をした。
「音だけでは、正直、証拠にはなりません」
「わかっています」
花は静かに、しかし刃のように言った。
「あなたたちは"見えないもの"を、いつも疑いますよね。でも私にとって"聞こえるはずのない音"は、あなたたちにとっての"見えるはずのないもの"と、同じくらい確かな現実です。それを信じないというなら――あなたは、自分の目しか信じていないということです」
磯川は答えなかった。彼はメモ帳に何かを書きつけていたが、花にはその音の間隔から、それが本当に記録なのか、それとも単なる時間稼ぎなのか、なんとなく察しがついた。
「刑事さん。あなたたちが"証拠がない"と言うとき、それは大抵、"探す気がない"の言い換えです」
花は、コーヒーをひと口飲んだ。豆の香りの奥に、かすかな苦味が広がる。
「私は、目が見えなくなってから、"見た目で判断されない"人間関係を、初めて経験しました。声のトーン、言葉の選び方、間の取り方――それだけで、その人がどういう人間か、大抵わかるようになった。刑事さん、あなたの声には、"信じたいけれど、上に説明できない"という迷いがあります。それは、悪いことじゃない。でも、迷いのまま終わらせるのは、あなたの怠慢です」
その一言が、その場にいた誰よりも、磯川の胸に長く残った。
店を出た後、磯川は、しばらく駅前のベンチに座り込んでいた。花の言葉が、彼の中で、何度も反響していた。彼はこれまで、「証拠がない」という言葉を、捜査の限界を示す、いわば「事実」として使ってきた。だが、その言葉の裏に、いつも自分自身の「これ以上は踏み込まない」という選択が隠れていたことに、磯川は初めて、正面から向き合わされた気がした。




