一 サロンにて①
天暦782年 晩秋
マリア17歳
冷たい北風から逃れるように、マリアはサロンに入る。
サロンの中は暖かな空気に満たされていた。
近寄ってきたサロンの従業員に上着を預け、マリアは窓際の席の1つに腰掛ける。
学園内に数箇所あるサロンのうち、整えられた庭に面したこのサロンは、マリアのお気に入りだった。
近頃はすっかり足が遠のいてしまっていたけれど。
窓の外の花壇でコスモスが揺れている。
従業員がお茶をサーブしてくれるのに礼を言って、マリアはお茶に手をつけず、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
今日、私はここで婚約破棄を提案される。
婚約をなかったことにすること自体には未練はない。
そもそもすでに私たちの婚約関係は形を変えてしまったのだ。
サロンの窓際、物思いに沈む金髪の少女にサロン内の皆が注目していた。
近頃噂の三人の内の一人が人前に出てきて、格好の餌食だった。
あのうわさ。こそこそ。
本当かな。ヒソヒソ。
「姉妹で婚約者を取り合ってるんですってね」
マリアは、漏れ聞こえてきた囁き声に反射的に顔を上げ、かろうじて振り返るのを抑える。
取り合ってなどいない。
あの子と、妹のリリアと彼を取り合ってなんか……。
マリアは上げた顔を何食わぬ顔で、お茶を口にし、また少し俯いて、物思いに沈む。
お茶を口にしたことで、喉が潤い、知らず気負っていた緊張が少し抜ける。
……確かに周囲からはそう見えるだろう。
けれど、今回の騒動は、きっと不幸な事故だった。
恋は落ちるものらしいから、きっと不幸な事故に過ぎなかったのだろう。
マリアはそう思わないと、思い込まないとやっていられなかった。
あの子はいい子だから。
嫌になるほど、いい子だから。
マリアはそのオリーブ色の目を憂いに染めて、ただ窓の外の花たちを見ている。
いっそ、あの子がいい子でなければよかったのに。
そうであれば、憎むことができたのに。
……私が私自身を嫌いにならずに済んだのに。
にわかにまた周囲が騒がしくなって、マリアは、ハッと振り返るのをなんとか堪えた。
横目で窺って、確信する。
彼だ。
やっぱり今日話し合いに来ると思った。
私を避けていた彼らが、近頃私を探しているらしいと噂を聞いたから。
私も噂を避けて、人気がないところばかりにいたから、なかなか見つけられなかったのだろう。
それでも、噂が立つくらい、探し続けるくらい、彼らは私と話したがっている。
私が人前に姿を現せば、噂を聞いてくると思った。
マリアが平然とお茶を楽しむふりをしていれば、元婚約者のアレン・マクアージが近寄ってきた。
「マリア、今いいかい? 話があるんだ」
サロン中の人々が最早隠しもせずに、私たちに注目しているのがわかる。
気持ちはわかるが、ため息をつきたくなる。
まあ今はそれでいいのだけれど。
むしろ今この時はもっと注目してくれていい。
自分をぼんやりと見上げるマリアのことをどう思っているのか、アレンは険しい顔のまま、こちらを見下ろしている。
緊張して顔がこわばっているのだろう。
こちらも引きずられて、身構えてしまいそうになるのを堪えるのが一苦労だった。
目も笑えているだろうか。
「まあ、なんの御用かしら? 随分と久々ね。お話ならここでどうぞ」
彼が婚約の話で出向いてきたのだろうことは察していたので、そう言ったのはわざとだった。
意地悪ではない。
いや、多少はそうかもしれないが。
しかし、大部分は、そうする必要があったから、そうした。
私はこれからする話をできるだけ多くの人に聞かせたかった。
そうすることで、人々の印象を塗り替えるのだ。
シャルメリアに醜聞などないのだから。
アレンは焦った顔をする。
彼ら二人の思惑から外れたことを私が言ったから。
「大事な話なんだ。場所を移そう」
もちろん本来ならば、こんなところで話す内容ではない。
けれども、だからこそ促す。
私も必死だった。
彼ら二人の未来のために、何よりシャルメリアのために、人々の認識を塗り替えなければならない。
「ですから、どうぞ話してください。ここでお聞きします」
「君の、いや僕らの未来に関わる話だ。こんなところで話すことではないよ」
ここでは話せないのだと言う彼が、何を懸念しているのか分かっている。
私のためだ。
私が傷つけられることが最小限であるように考えたのだろう。
内密に話を進めることで、私の名誉をできる限り守ろうと。
もう噂にはなってしまっているけれど、それだって彼らにとっては予想外だったに違いない。
だって彼らは手さえ重ねていないのだ。
彼らが優しい善人であることは、彼らの一番近くにいた私がよくよく知っている。
彼らがせめてと、自分たちが非を持つように噂を操作しようとしていたことも。
彼らは確かに私を裏切って、恋に落ちたけれど、精一杯に私に尽くしてくれた。今だって。
だからこそ、人目があるこの場で言って欲しい。
決してそれは、彼らが公で私を捨てる非道な人間であるかのように、見せたいのではなかった。もちろん私自身を傷つけるためでもない。
「構いません」
あえて、貼り付けていた笑みを剥がして、ほんの瞬き真剣な顔をして見せる。
これで、私が譲らない気なのだと分かってくれただろう。
アレンは困った顔で黙り込み、そして諦めたように口を開いた。
「マリア、君との婚約を解消して欲しい」
サロン中が静まり返った。
そのことに気づいていないかのように、彼は続ける。
「好きな人ができてしまったんだ。
君との婚約を解消しても、そのままその人と結ばれることはないだろう。
それでも、本当に好きな人ができてしまった今、君のことを真実愛することはきっとできない。
……君のことは大事だ。そう言う意味で好きにはなれなかったけれど、幸せになって欲しい。
だから、俺との婚約を、マリア、君から解消してくれないか?
どうか君を愛せなかった俺を捨てて欲しい」
ああ、やっぱりそう言う話だった。
どこまでも真摯に語る彼に、胸が重たくなる。
分かっていたはずなのに、私は少なからず傷ついていた。
言葉を重ね、それでいて相手のことを明言しない姿は、私への優しさと相手への愛でできているのだろう。
胸の重さにつられるように、マリアは顔を顰める。
彼は黙して、私の応えを待っている。まるで断頭台の罪人のように。
サロン中の人々が私に注目しているのがわかる。
彼らは何を期待しているのだろう。
野次馬などして、私に取り乱してでも欲しいのだろうか。
他人の揉め事はそんなにも興味深い?
自分で人目を望んだくせに、私は周囲で騒ぐ彼らに苛立った。
噂が立つ前にも、ご親切にも妹たちの仲を教えてくれた友人や心無い人。
その心配そうな哀れんだ声、嘲った見下した顔がリリアやアレンに向かなかったとは考えにくい。
それでも彼らは、恋を、互いを選んだ。
互いへの想いだけを胸に、これからも手さえ重ねられない生活を続ける覚悟を、彼らは持っている。
周囲に揶揄されても、親に罵られても、独り身を貫く覚悟なのだ。
そこまでの彼らの思いを邪魔をして、アレンと無理に結婚したところで、私の『夢』は叶わない。
だから、これはある意味私のため。
マリアは渾身の演技で、不思議そうに首を傾げてみせた。
「あなたと私の婚約?
一体何のお話ですか?
……あら、そうそう。あなたのお相手はリリアに本決まりになりそうですわ。
よろしくて?」
———幸せな家族を持つのが夢だった。
私にとって、親や妹と居るのは、苦痛で仕方ない時もあったから。




