序 静かな幸福
天暦785年 春
マリア20歳
その日も、マリアは、夫と共に、執務に励んでいた。
夫は真面目で向上心の強い人だが、悪く言えば、突発的なことに弱いところがある。
平時の領地経営はつかめてきたようだが、緊急時の対応がまだ危うかった。
「カイト様、そろそろ休憩にいたしましょう?」
「しかし、……」
根を詰めすぎている夫を、休憩に誘う。
「あまり焦りすぎても良くありません。一旦お茶にしませんか? 頼んでいたお茶が、そろそろ来るはずです」
タイミングよく、ノックの音。
いや、タイミングを見計らってくれていたのだろう。
「どうぞ。ほら、カイト様」
「あ、ああ。入っていい」
ティートレインを運んできた侍女が、部屋の隅に控えるのに合わせて、マリアはエスコートされ、席を立とうとした。
しかし、ほのかな紅茶の香りが、鼻先をかすめた瞬間、急な吐き気がこみあげてきた。
思わず、口元を抑え、身を屈める。
「う、うぇ」
「マリア! どうしたんだ?」
「おじょ……奥様!」
古くから家に仕える侍女が、素早く寄ってくる。
夫も心配そうに狼狽えている。
その気配は捉えているのに、そちらに構っていられない。
どうして?
このところ収まっていたのに。いつもは我慢できていたのに。
様々な疑問が、マリアの中で溢れ出し、一層気持ちが悪くなる。
「まさか……。いえ、今は治癒師を呼びましょう。旦那様、」
「ああ、許可する。一刻も早く治癒師の手配を。それから、彼女は俺が運ぶ。寝室の用意は?」
「すぐに」
慌ただしく、呼ばれてきた治癒師は、問診をして、首を傾げた。
「紅茶の匂いで吐き気、ですか。……奥様、月のものはありますか?」
「そういえば……ふた月は空いています」
「ふむ。空腹のとき吐き気がしたり、近頃食欲の変化はありましたか?」
「……少し」
「そうですか。少し診てみましょうか」
治癒師は、胸の音を聴くと言って何やら器具を当てたり、マリアの腕に指を数本添えたりして、何かを測り、カルテに何事か書き込んだ。
治癒師が何をやっているのか、その場の誰にも詳しくはわからなかった。
しばらくすると、治癒師は1つ頷き、診断を告げた。
「今の段階では断言はできませんが、ご懐妊の可能性があります。お心当たりがなければ、別の可能性を考えますが……」
マリアはその言葉を聞いた瞬間、頭が真っ白になった。
ぼんやりと虚なマリアに、夫はそっと「ありがとう」と言ってマリアを抱きしめた。
「え、ええ。先生、それで、今後はどうしたら?」
「定期的に診察に来ます。お体を大事に安静にすることです。適度な運動と、栄養のある食事をとって、動きすぎないこと。今からの時期は心配いらないでしょうが、体を冷やしすぎるのもよくありません。
それから、お聞きしたいことが。息苦しかったり、胸が脈打っているような感じはありませんか?」
「……昔からあります。それが何か?」
マリアが拒絶の意味を込めて微笑むと、治癒師は何かを言いよどんだ。
そして、屋敷中の人がお祝いの雰囲気の中、治癒師だけが、思いつめたような表情で帰っていった。
その日の夜、覚悟を決めたマリアは、使用人に手配してもらった鍵付きの日記帳に、文字を綴り始めた。
『これはわがままな私の願いの記録です。きっと会えない私の我が子、母はあなたを愛しているわ』




