第9話:非通知の警告、あるいは共犯者の誘い
ビジネスホテルの狭いベッドの上で、燈馬は不気味に震え続けるスマホを凝視していた。
液晶画面に明滅する、登録されていないイレブンジジットの数字。
東桜市役所の財政課、あるいは厚生労働省の出先機関が使用する、内部専用の特殊な交換機コード。
「……燈馬だ」
通話ボタンをスライドさせ、耳元に押し当てる。エアコンのファンが吐き出す冷気が、じっとりと汗ばんだ手のひらを冷やしていった。
受話器の向こうから聞こえてきたのは、深夜のオフィス特有の、低くハミングするようなサーバーの駆動音。そして、驚くほど若く、だが完全に感情の摩耗した男の声だった。
『――燈馬さんですね。佐藤清さんの担当ケアマネジャーの』
「誰だ、お前は」
『東桜市役所財政課の、渡辺と言います』
男――渡辺は、淡々と名乗った。そのトーンには、告発者のような悲壮感も、追跡者のような敵意もなかった。まるで、明日の給付費の減算処理について連絡してきた、ただの事務官のそれだった。
『あなたが数時間前、うちの共有サーバーのゴミ箱から、ある暗号化ファイルをリダイレクトして引き抜いたログを追跡しました。……あの、人口動態の代謝シミュレーションのデータです』
燈馬はフッと鼻で笑い、ベッドの背もたれに体を預けた。
「お役所仕事の割には、尻尾を掴むのが早いじゃないか、小僧。あの裏帳簿がシャバの小説サイトや動画プラットフォームに放流されたら、お前らの言う『財政健全化』とやらが、ただの大量屠殺(間引き)のプログラムだってことが一発でバレるぞ」
『放流なんて、できませんよ』
渡辺の声は、氷のように冷たかった。
『あなたが今さっきまでダイレクトメッセージで通信していた、あの総合病院の看護師。彼女のアカウントをシステムから弾いたのは、うちの「特区誘導推進AI」の自動アルゴリズムです。
今の時代、日本の主要な通信ゲートウェイも、SNSのインフラも、すべて上流のハッキング検閲システムと同期しています。あなたがそのファイルをどこかのサーバーにアップロードした瞬間に、パケットは破棄され、あなたの全端末の通信はロックされる。二進法の世界に、あなたの逃げ場はありません』
「だったら、なんでわざわざ電話なんてしてきた? ロックするなら、黙ってやればいいだろ」
燈馬の鋭い問いに、受話器の向こうの渡辺が一瞬、言葉を詰まらせた。
静寂。5月の深夜のじっとりとした闇の中で、渡辺の小さな呼吸の音が聞こえる。
『……相談、なんです』
「相談?」
『ええ。燈馬さん、あなたは25年間、介護保険制度の泥をすすってきた一匹狼だ。だったら、僕よりも何倍も理解しているはずです。
あの佐藤という老人が、これから10年生き延びて、寝たきりで月に何十万もの医療費を食い潰し続けたとして、その帳尻を誰が合わせるんですか?
僕たちの世代の住民税ですか? それとも、これから生まれてくる子供たちの命の担保ですか?』
渡辺の言葉は、昼間に地下室で上司の金子から叩き込まれた「官僚の正義」そのものだった。彼もまた、システムという名の巨大なシュレッダーに魂をハッキングされた、被害者の一人なのだ。
『あの世代は、自分たちが国を支えてきたと本気で信じ込んでいる。自分たちが現役時代に納めた、はした金のような保険料だけで、死ぬ間際まで最高峰の延命治療のサブスクを享受できると思っている。その傲慢なそろばん勘定を、誰かが物理的にリセットしなきゃいけないんです。
僕たちは、彼らが喜んで自民党に投じた一票を、そのまま彼らの「出荷手続き」の判子として執行しているだけだ。……誰も、悪くないんですよ』
「だから、お前も自分の親をあのケアタウンに送った、ってか?」
燈馬の言葉に、受話器の向こうで、何かが激しく崩れるような気配がした。
「渡辺。お前らがやってるのは、財政健全化じゃない。ただの『数の暴力』と『そろばんのハッキング』だ。老人が邪魔になったから、制度をカタカナ語で書き換えて、外部の目の届かないブラックボックスへ出荷する。それがどれだけ綺麗な administrative term(行政用語)で着飾られていようが、中身はただのドロドロとした『姥捨て山』だ。
25年間現場にいて、そんな綺麗事に騙されるかよ」
燈馬は、ノートPCの画面に映る、佐藤清の痩せ細った本当のカルテを愛おしそうに撫でた。
「佐藤のじいさんはな、偏屈だけど、近所の惣菜屋のポテトサラダが美味いって言って、毎日自分の足で歩いて買いに行ってたんだよ。国を信じて、役所を信じて、真面目に生きてきた人間を、1.2ヶ月の折れ線グラフの帳尻合わせのために蝋人形に変えていい道理なんて、どこにもねえんだよ」
『……残念です、燈馬さん』
渡辺の声から、完全に人間的な湿り気が消え失せた。
『システムは、明日から「佐藤清の担当ケアマネジャーが、重度の認知症を発症し、被害妄想による不審な行動を起こしている」という法定書類の書き換えを、自動で開始します。……あなたの身柄の隔離措置(出荷)の書類は、僕が今、承認ボタンを押しました』
ツーツー、という無機質な電子音が響き、回線が切れた。
次の瞬間、ビジネスホテルの部屋の廊下から、コツン、コツンと、不自然なほど統率の取れた複数の足音が、ゆっくりと燈馬の部屋へと近づいてくるのが聞こえた。
5月の深夜。冷房が効いているはずの室内が、急激に、生き物の中身を冷やす冷凍庫のように凍りついていく。




