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第10話:足音の狂気、ハックされた日常

コツン、コツン。


ビジネスホテルの薄いドアを隔てたすぐ向こう、リノリウムの床を叩く足音が、燈馬の部屋の前でピタリと止まった。


室内の空気は完全に凝固していた。エアコンの吹き出し口からは、5月の深夜の熱気を嘲笑うような、骨まで凍てつく冷気が吹き出し続けている。


(……三人、か)


燈馬は音を立てずにベッドから足を下ろし、中古のノートPCを乱暴に閉じた。25年間の現場作業で鍛え上げられた身のこなしが、一切の無駄なノイズを消去する。

スマホの画面を盗み見ると、電波のアンテナマークが一本、また一本と、まるで命の灯火が消えるようにベースから剥がれ落ち、完全に『圏外』へと切り替わった。


街の通信インフラごと、燈馬の周囲の空間がデジタル的に隔離ロックされたのだ。


「燈馬さん。夜分遅くに恐れ入ります、東桜市福祉総合支援センターの者です」


ドアの向こうから、若い男の声がした。あまりにも丁寧で、あまりにもマニュアル通りな、役人の声。


「当センターに、燈馬さんが『著しい見当識障害および他害の恐れを伴う急性認知症状』を発症されているとの緊急通報が入りました。財政課の管理システムおよび主治医の電子署名により、本日付で『特定福祉区域における臨時保護措置』の執行が承認されています。鍵を開けて、中へ入らせてください」


保護、措置。

彼らが使う美しい administrative term(行政用語)が、狹い室内にドロドロとした狂気となって染み出してくる。

それは、かつて燈馬が身寄りのない老人のために何度も手続きを踏んできた、法的な「強制連行」のシステムそのものだった。ただ一つ違うのは、今回はその刃が、システムを暴こうとした燈馬自身の首筋に突き立てられているという点だけだ。


「おいおい、俺のケアマネライセンスは今でも現役だぞ。更新研修だってちゃんと受けてる。勝手にボケ老人扱いすんじゃねえよ」


燈馬はドアに向かって低く吐き捨てながら、部屋の唯一の脱出経路――窓へとじりじりと後退した。


「ライセンスの有効性は、先ほどシステム上で『凍結』されました。現在のあなたは、法律上、自己の行動責任を担保できない『要介護5相当の被保護者』です。開けていただけない場合、警察立会いの下で強制解錠を行います。……あと一分です」


男の淡々とした宣告。

大衆が優しい福祉、安心のセーフティネットと信じ込んでいる「法律」と「電子署名」が、ひとたびハッキングされれば、現役の人間をものの数分で「シャバから消去できる」殺人許可証へと変貌する。


(一分、か。十分すぎるな)


燈馬は、ノートPCをビジネスバッグに押し込み、たすき掛けにして背中に固定した。

窓のクレセント錠を静かに外す。窓を開けると、五月のねっとりとした、昼間の猛暑の余熱を孕んだ夜気が、燈馬の顔を殴りつけた。


ここはホテルの三階。下を見下ろすと、狭い路地裏のコンクリートの地面と、その隅に置かれた分厚いゴミ収集用のプラスチックコンテナが見える。


「渡辺の小僧……、お前らの弾いたそろばん通りに、大人が全員大人しく出荷されると思うなよ」


燈馬は窓枠に足をかけた。


背後で、ドアの鍵が「ガチャリ」と機械的な音を立てて回る。役所が持っているマスターキーのハッキング。


「燈馬さん、失礼しま――」


扉が乱暴に開くと同時に、燈馬は五月の生ぬるい闇の中へと、迷わずその身を投げ出した。


重力を引き裂くような落下の風。背中のバッグが激しく揺れ、次の瞬間、ドスッという鈍い衝撃とともに、燈馬の体は路地裏のコンクリートに叩きつけられた。左肩に、焼火箸を押し付けられたような激痛が走る。


「……う、ぐっ……!」


痛みを噛み殺し、泥のように這い回って立ち上がる。見上げると、三階の部屋の窓から、白いガウンを着た男たちが無表情にこちらを見下ろしていた。その手には、拓也が居酒屋で言っていた、あの「黒いラベルのアンプル」を装填したシリンジが、街頭の明かりを浴びて鈍く光っていた。


燈馬は激痛の走る左腕をかばいながら、新橋の、サラリーマンたちの笑い声がまだ遠くに響くコンクリートの迷宮へと、全力で駆け出した。


ポケットの中で、圏外のはずのスマホが、一瞬だけ異様なグリッチ(画面の乱れ)を起こした。

そこに表示されたのは、消去されたはずの看護師・美咲の端末から自動送信された、一本の古い「座標データ」だった。


【府中刑務所・旧医療区画跡地】


国家ハックのプロトタイプが開発されたという、すべての地獄の原点の数字が、液晶の光の中にドロドロと浮き上がっていた。

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