第11話:暴雨の座標、府中という名の聖域
激痛の走る左肩を庇いながら、燈馬は深夜の東桜市の迷宮を駆け抜けていた。
五月の生ぬるい夜気が、いつの間にかじっとりとした生温かい雨へと変わっている。アスファルトに叩きつけられる大粒の雨が、街灯の鈍い光を乱反射させ、東京のコンクリートジャングルを一つの巨大な水槽のように変えていた。
「ハァ、ハァ……、くそが……」
路地裏の自動販売機の陰に身を潜め、燈馬はスマートフォンを睨みつけた。
画面のグリッチは収まっていたが、美咲の端末から最後に送りつけられたあの「座標」だけが、網膜に焼き付いて離れない。
『府中刑務所・旧医療区画跡地』
「よりによって、法律の光が一番届かない場所を指定しやがる」
燈馬は、痛む左肩を壁に預け、荒い息を整えた。
府中刑務所。言わずと知れた、日本最大級の矯正施設だ。近年、日本の高齢化の波はシャバだけでなく、塀の中をも完全に飲み込んでいた。受刑者の高齢化、それに伴う「刑務所の介護施設化」は、2020年代前半からすでに国会でも問題視されていたファクトだ。
だが、燈馬が25年の泥水の中で掴んでいた「裏の噂」は、もっとドロドロとしたものだった。
数年前、府中刑務所の奥深くに、一般の看守すら立ち入りを禁じられた「特別医療区画」が新設されたという。名目は『高齢受刑者に対する先進的認知症ケアの実証実験』。だがその実態は、身寄りもなく、死んでも誰も遺体を引き取りに来ない「団塊の世代の老囚人」たちをモルモットにした、アミロイドβ直接投与による『高速代謝システム』の実験場。
外部の監査も、家族の目も100%遮断できる絶対的なブラックボックス。そこで完成された「1.2ヶ月の看取りプロトコル」が、今、相模湖のケアタウンという綺麗な皮を被ってシャバへと流出し、佐藤清を、そして燈馬を飲み込もうとしている。
「そこに、まだ本物のデータ(ファクト)が眠ってるってわけか……」
美咲が命がけでアクセスし、そして消された理由がようやく繋がった。彼女は、相模湖の施設に直結している「データの出処」に触れてしまったのだ。
燈馬はビジネスバッグからノートPCを取り出し、雨に濡れないようジャケットのインナーで覆いながら、電源を入れた。
画面には、先ほど渡辺から宣告された通りのアラートが冷たく輝いている。
『警告:当該ユーザー(147-TOUMA-026)は、法定認知症による徘徊行動につき、現在、広域保護命令が発令されています』
「お仕事が早いことで」
燈馬は自嘲気味に笑った。
すでに彼のケアマネジャーとしての個人口座は凍結され、クレジットカードも、交通系ICカードのデータも、すべて「認知症の徘徊による不正利用防止」の名目でロックされているはずだ。今、コンビニで電子決済でも使おうものなら、その瞬間に『特区誘導推進AI』が彼の位置座標を弾き出し、あの「白いガウン」の男たちが防護車で現れるだろう。
大衆が「便利で安心なデジタル社会」と信じ込んでいるマイナンバーと決済のインフラが、ひとたび国家にハックされれば、個人を社会的に干殺しにするための「見えない檻」に変わる。
「だがな、お前らが切り捨てた25年前の『古い泥』を舐めるなよ」
燈馬はPCのキーボードを片手で叩き、暗号化されたP2Pのゲリラ回線を開いた。
彼がまだ20代の若手ケアマネだった頃、制度の隙間で不正を働く悪徳業者や、ヤクザまがいの介護報酬詐欺グループと渡り合うために構築した、役所の検閲アルゴリズムが決して届かない「アンダーグラウンドの連絡網」。
その最深部にある、一つのコードを呼び出す。
登録名は【黒木】。
半年前まで、府中刑務所の医療区画で看守長を務めていたが、システムの内幕を知りすぎたために「重度の被害妄想」のラベルを貼られて職を追われた、あの男だ。
『……燈馬か』
ノイズ混じりの音声が、スピーカーから低く漏れた。雨の音に掻き消されそうな、怯えと焦燥の混ざった声。
「黒木。佐藤のじいさんが相模湖に狩られた。役所の財政課の小僧が、1.2ヶ月の裏帳簿を承認しやがった」
『……網が、閉じたか』
黒木は乾いた声で笑った。
『言っただろ。あれは国家のそろばん勘定だ。団塊の世代という、この国で最も分厚い家畜を燃やさなきゃ、次世代のインフラが維持できない。現役の若者たちだって、内心ではそれを望んでるのさ。老人に早く死んでほしいとね』
「綺麗事はいい。美咲から府中の旧医療区画の座標が飛んできた。あそこに何がある」
受話器の向こうで、黒木が激しく咳き込む音がした。その背後から、5月の暴雨とは違う、何か不穏な足音が聞こえた気がして、燈馬は耳を澄ませた。
『あそこには……、システムが改ざんする前の「初期ロットの投与データ」が物理サーバーに残っている。九条の会社が、厚労省のOBと結託して作成した、本物の「一億総出荷」の契約書だ。それがあれば、特区の条例も、AIの検閲システムも、法的に内側から爆破できる』
「場所は」
『旧医療区画の地下、第三ボイラー室の奥だ。だがな、燈馬……あそこはもう、シャバの警察も立ち入れない「特区の聖域」に指定されている。行くなら、文字通り――』
その時、黒木の音声が、バリバリという激しい電子ノイズによって引き裂かれた。
『な、なんだお前ら! 臨時の健康診断だと!? やめろ、俺はボケてない! 触るな――!』
受話器の向こうで、肉体が激しく壁にぶつかる音、そして、衣服の上から鋭い注射針が迷いなく突き立てられる、あの生々しい肉の音が響いた。
『……黒木さん。ご安心ください、役所の青い書類はすでに受理されています』
感情の消えた、あの「白いガウン」の男たちの声。
次の瞬間、回線は完全に切断され、画面には『通信不能』の文字だけが虚しく明滅した。
「黒木……!」
燈馬はノートPCを叩きつけるように閉じた。
激しい暴雨が、自販機の屋根を叩き、彼の全身を容赦なく濡らしていく。
包囲網は、もう燈馬の鼻先まで迫っていた。美咲が消され、黒木が狩られた。すべての点と線が、あの「府中の実験室」を指し示している。
「面白えじゃねえか……」
燈馬は痛む左肩を強引に回し、骨が軋む音を無視して、雨の闇の中へと踏み出した。
組織には属さない。守るべき肩書きもない。デジタルインフラをすべて剥がされたからこそ、この国の最も触れてはならないタブーの心臓部へ、生身の肉体で潜り込む資格がある。
5月の狂った暴雨の中、東桜市役所の地下で渡辺が承認した「血のそろばん」をひっくり返すための、一匹狼のゲリラ戦。その足跡は、激しい雨に洗われながら、地獄の原点へと向かって伸びていった。




