第12話:五月の豪雨、見えない檻の網の目
バケツをひっくり返したような豪雨が、深夜の調布飛行場沿いの国道を容赦なく叩きつけていた。
ワイパーが激しく往復しても、フロントガラスの向こうは白く煙るばかりで、視界は十メートルも利かない。燈馬は、介護報酬の闇ルートから調達した、電子ログの残らない骨董品のような軽ワゴンのハンドルを、痛む左手で強く握りしめていた。
車内のエアコンは壊れており、五月のねっとりとした熱気と、燈馬の濡れたジャケットから蒸発する湿気で、フロントガラスの内側が真っ白に曇っていく。彼はそれを使い古したタオルで何度も乱暴に拭いながら、アクセルを踏み込んだ。
「……ハァ、ハァ……」
左肩の激痛が、脈打つたびに脳の芯を鋭く削る。だが、それ以上の焦燥感が彼の全身を支配していた。
助手席に置いた古いノートPCの画面には、東桜市の管理サーバーから引き抜いた『代謝シミュレーション』のデータが、外部ストレージの暗号の中で鈍く光っている。そしてその横では、燈馬自身の『要介護5・広域保護命令』のステータスが、国の広域監視ネットワークの網の目をじわじわと広げている様子が、ゲリラ回線のログから見て取れた。
「国中が、俺を『ボケ老人』に仕立て上げるために動いてやがる」
燈馬は低く毒づいた。
高速道路のETCゲートは使えない。Nシステム(自動車ナンバー自動読取装置)のカメラも、この豪雨なら多少は誤魔化せるが、主要な交差点に設置された『特区監視AI』の網に引っかかれば、数分で白いガウンの防護車が背後に張り付くだろう。
現在の日本社会において、国から「認知症による徘徊・他害の恐れあり」と認定されることは、法的な死を意味する。本人の意思、本人の記憶、本人の人権。そのすべてが「保護」という大義名分の下で剥奪され、成年後見制度と行政措置という名の、外部の目が1ミリも届かないブラックボックスの中へ放り込まれる。
大衆はそれを「徘徊老人による事故を防ぐための、安心のセーフティネット」だとテレビの前で絶賛しているが、その実態は、システムに牙を剥いた不都合な人間を、合法的にシャバから消去するための『見えない檻』だ。
ギィィ、と軋むブレーキ音を立てて、軽ワゴンは府中市の深い鬱蒼とした並木道の影へと滑り込んだ。
ヘッドライトを消すと、豪雨のカーテンの向こうに、周囲の住宅街から完全に隔絶された巨大なコンクリートの城壁が、威圧的に浮かび上がった。
「府中刑務所――」
25年前、燈馬がケアマネジャーの資格を取ったばかりの頃、ここはまだ「罪を犯した者が服役する場所」だった。だが今、その壁の向こう側は、外側のシャバよりも遥かに高い密度で高齢化が進行し、国が密かに開発した『最終代謝システム』の、最も冷徹な実験場と化している。
黒木が電話を切られる直前に言い残した言葉が、燈馬の脳裏で激しくリフレインする。
『旧医療区画の地下、第三ボイラー室の奥だ。そこに、初期ロットの投与データと、本物の契約書が眠っている』
燈馬は助手席のビジネスバッグを肩にかけ、助手席のグローブボックスから、古いボルトカッターと、ケアマネの職務でかつて手に入れた施設管理用のマスターキーを取り出した。
車外に出た瞬間、冷たい豪雨が燈馬の全身を容赦なく打ちのめす。五月の雨とは思えないほど、その水滴は燈馬の開いた傷口に冷たく、重く突き刺さった。
コンクリートの城壁の裏手。かつて資材搬入用に使われ、現在は「特区管理区域・立ち入り禁止」の黄色いテープが張り巡らされた古い鉄扉の前に、燈馬は音もなく立った。
ボルトカッターを錆びついた南京錠の噛み合わせにねじ込み、残った右腕の力と、自身の体重のすべてをかけて押し下げる。
ガキン、と激しい金属音が、豪雨の轟音の中に掻き消された。
壊れた錠前を地面に落とし、燈馬は重い鉄扉を数センチだけ押し開けた。
その向こうから流れ出してきたのは、シャバの猛暑とは全く違う、消毒液の匂いと、老いた肉体が発する排泄物の匂い、そして――濃厚な「死の予感」を孕んだ、極限まで冷え切った地下の冷気だった。
燈馬は暗闇の中へと、躊躇なくその身を滑り込ませた。




