第8話:深海のダイレクトメッセージ、加工された笑顔の裏側
『……本当に、それだけのデータを持っているんですか?』
深夜二時。東桜市内の安ビジネスホテルのシングルルーム。エアコンの吹き出し口から吐き出される冷気が、五月の深夜の生ぬるい湿度とせめぎ合い、狭い室内を妙に肌寒くさせていた。
燈馬が持ち込んだ古いノートPCの液晶画面。その暗号化されたダイレクトメッセージ(DM)のウィンドウに、地方総合病院の看護師、美咲からの文字が、ポツリ、ポツリと、まるで血を絞り出すような速度でタイピングされていった。
『嘘じゃありません。私が勤務する病棟から、今月だけで5人の高齢者が、あの相模湖の「ケアタウン」へ転院しました。みんな、ただの軽度認知症(MCD)や、ちょっと足腰が弱っただけの、昨日まで普通に家族と電話で話していたお年寄りです。それが、あのルートに乗った途端、誰一人として生きて戻ってこないんです。全員、一ヶ月足らずで「肺炎」か「老衰」の死亡診断書が回ってくる……』
燈馬は煙草を咥えたが、火は点けなかった。画面の文字を見つめる彼の目は、25年間の現場の泥を見てきた冷徹な色を帯びていた。
「やっぱりな。病院も、役所のハッキングシステムと完全に同期してやがる」
燈馬の指がキーボードを叩く。
『彼らが転院する直前、あるいは施設に到着した直後、どんな「処置」をされているか、カルテの追跡はできるか?』
画面の向こうで、美咲のタイピングがしばらく静止した。数分間の沈黙。エアコンの駆動音だけが、不気味に響く。やがて、震えるような文字列が返ってきた。
『……カルテには、理由のわからない「脳機能の急速な萎縮」としか書かれていません。でも、私は見たんです。転院の荷物をまとめる時、ドクターのデスクの上に置かれていた、あの新興政党のロゴが入った「特区専用ガイドライン」のファイルを。そこには、特定の型番の薬品を、初日から集中的に点滴に混入するよう指示が書いてありました。
でも、一番恐ろしいのは、薬そのものじゃないんです。……家族なんです』
『家族?』
『はい。私の病棟に入院していた佐藤さんというおじいちゃんの娘さんが、昨日、施設の「オンライン面会アプリ」の画面を、嬉しそうに私たちに見せてくれたんです。画面の中の佐藤さんは、すごく血色が良くて、滑らかな笑顔で「ここの先生は素晴らしい、頭がすっきりする」って話していました。娘さんは泣いて喜んでいました。……でも、そんなはずないんです!』
画面の文字が、美咲の錯乱した精神をそのまま映すように激しく乱れる。
『その前日、私が佐藤さんをストレッチャーに移した時、佐藤さんの肉体は、すでに自分の名前も言えず、目は虚ろで、口元からはダラダラと涎を垂らして、ベッドに縛り付けられていたんです! 画面に映っていたあの健康そうな笑顔は、本物の佐藤さんじゃない。あれは……あれは、最新のAIで加工された、ただの「動く蝋人形」なんです!』
燈馬は小さく息を呑み、咥えていた煙草を灰皿に叩きつけた。
上流の成金、九条が豪語していた「終末期医療のサブスク」。
完全面会謝絶という、コロナの遺産を悪用したブラックボックス。
その内側で、家族に配信されているのは、本人の過去の動画データを学習させ、リアルタイムで表情をリップシンクさせているディープフェイク(AI合成映像)。
家族は、画面の向こうの「加工された笑顔」に騙され、親が最高の福祉を受けていると信じ込み、笑顔で何百万円もの初期費用や出来高の請求書を決済する。
その裏側で、本物の老人の肉体は、外部の目を完全に遮断されたベッドの上で、薬物によって進行をギガ単位で加速されたアルツハイマーの泥沼に沈められ、最速で「処理」されていく。
遺族は何も気づかない。ただ「最期に元気な顔が見られて良かった」と涙を流し、その数日後に発生する相続税の通知書を受け取るのだ。
『美咲、そのガイドラインの画像か、薬品の型番のログを、今すぐ俺のこの暗号化ストレージに送れ』
燈馬はメッセージを打ち込んだ。
『役所の地下から、国が引いた「1.2ヶ月の代謝計画」の裏帳簿は、俺がすでに引き抜いてある。お前の現場のファクトが合流すれば、このコンベアベルトの心臓部を、外側から完全に爆破できる』
『わかりました。今、夜勤の隙を見て、内服管理室のPCからデータを……』
だが、美咲のメッセージは、その途中で不自然に途切れた。
液晶画面のインジケータが「接続中」のまま、奇妙なディレイを起こし始める。
燈馬の背筋に、ピきりと冷たい悪寒が走った。
次の瞬間、美咲とのDMのウィンドウ全体が、強制的に暗転した。
画面の中央に、無機質な赤文字のポップアップが立ち上がる。
『警告:指定されたアカウントは、公衆衛生に関する重大な虚偽情報の拡散(デマゴーグ行為)の検知により、システム管理者権限によって永久凍結されました。通信ログは関係機関へ即座に転送されます』
「チッ……、検閲のアルゴリズムが、もうここまで回ってんのかよ!」
燈馬はノートPCを乱暴に叩いた。
SNSのタイムラインをリフレッシュする。だが、美咲のアカウントは、数秒前までそこに存在していた痕跡すら残さず、奇麗さっぱりとタイムラインの海から消去されていた。
代わりに表示されたのは、新興政党の公式アカウントが投稿した、本日行われる「相模湖・先端医療特区視察ツアー」の、輝かしいPR動画だった。
五月の深夜。冷房の冷気の中で、燈馬のスマホが不気味に震え出した。
画面に表示されたのは、登録されていない「11桁の数字」――役所の内部回線から発信された、非通知のコードだった。




