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第7話:新橋の雑音、思考停止の潤滑油

「――だからさ、マジで今の現場、最高だって話よ」


東桜市から電車で三十分。熱気が夜になってもアスファルトにべっとりと居座る新橋のガード下。五月の生ぬるい夜風がビニールカーテンを揺らす安居酒屋で、拓也は結露したジョッキをカウンターに叩きつけた。


二十代半ばの、どこにでもいる若手介護士の顔。日焼けした首元には、九条の経営する大手介護ベンチャー『ハイパー・ライフケア』の社名ロゴが入ったポロシャツが、汗で張り付いている。


「看板がさ、先月から『介護医療院・相模湖ベース』に変わったわけ。そしたら上の人間から『お薬の管理は全部こっちで一括してやるから、夜勤の介護士は余計なことすんな』って言われて、謎の新しいアンプル(注射薬)が導入されたんだよね」


拓也は焼き鳥のタレを口に放り込み、隣に座る同業の友人に楽しげに語りかける。周囲では、会社帰りのサラリーマンたちが「少子化対策の財源、増税なしでいけるらしいぞ」「自民党もたまにはいいこと言うな」と、テレビのニュースを肴にビールを煽っていた。


「それまでさ、夜中に大声を上げて徘徊したり、オムツをむしり取ったりしてた団塊のじいさんたちがさ……その黒いラベルの薬が点滴に混ざった途端、一瞬で大人しくなってベッドから動かなくなるんだわ。意思確認? 署名? そんなの、上の人間がタブレット持って『はい、おじいちゃんここに指置いてねー』ってやれば数秒で終わり」


「へえ、ラクになって良かったじゃん」


友人が呑気にグラスを傾ける。拓也は「そうなんだよ!」と声を弾ませた。


「おかげで夜勤のオムツ交換の回数が激減して、ぶっちゃけスマホいじる時間増えて超ラク。中で何が起きてるかなんて、末端の俺たちにはどうでもいいじゃん? 給料さえ出ればさ。

あのじいさんたちさ、ベッドで意識が朦朧とする直前まで、テレビの政治討論見ながら『やっぱり国を任せられるのは自民党だけだな』って嬉しそうに呟いて、選挙の時は毎回進んで一票入れてたんだからさ。お望み通りの『お国のために命を捧げる幸せな最期』ってやつでしょ。誰も損してないわけ」


拓也の悪気のない笑い声が、ガード下を走る電車の轟音にかき消されていく。

彼のような「思考停止した末端」こそが、国家ハックという巨大なコンベアベルトを最も滑らかに回す、最高の潤滑油だった。


――その喧騒から数軒離れた、薄暗い路地裏のバー。


カウンターの片隅で、冷え切ったウイスキーのグラスを見つめている男がいた。

燈馬だ。


事務所のうだるような暑さを逃れ、街の雑音に紛れ込みながら、彼は手元のタブレットで「東桜市・佐藤清」の介護給付実績のログを監視していた。


「……やっぱり、もう相模湖に入ったか」


画面に表示されたのは、佐藤が「要介護2」から、特区への移送と同時に「要介護5(最重度)」へと、書類上わずか一日で『跳ね上がった』データだった。

普通の制度運用なら、あり得ない。行政の厳しい調査(訪問調査)を経て、何ヶ月もかけて判定されるはずの介護度が、国家の裏帳簿が絡んだ途端、一瞬で書き換えられる。


「要介護5」になれば、施設側が国に請求できる介護報酬の単価は最高額に達する。九条のような成金経営者が、最初の1〜2ヶ月で医療費と介護報酬を限界まで「吸い尽くす」ための舞台装置が、こうして完璧に整えられていくのだ。


燈馬はウイスキーを一口含み、喉を焼くアルコールの熱さに目を細めた。


役所の地下で、財政課の小僧が引いた「1.2ヶ月の代謝計画」。

新橋の居酒屋で、末端の介護士が笑い飛ばす「薬で大人しくなる老人」。

そして、SNSの底で、ある匿名の看護師が呟いていた『面会制限という名のブラックボックス』。


バラバラだった点と線が、燈馬の脳内で一本の、ドロドロとした「巨大な屠殺場」の形を結んでいく。


「制度の書き換えも、特区の条例も、すべてはこのためだったわけか……」


国が優しい顔をして高齢者に「フレイル検診」を勧めるのは、太らせた家畜ブロイラーをまな板へ誘導するため。

そして、彼らが喜んで自民党に投じた一票が、自分たちを最速で「処理」し、その遺産を少子化財源へと強制還流させるための、国家ハックのシステムを承認し続けている。


「佐藤のじいさん……あんたが信じた国の本性を、俺が見せてやるよ」


燈馬はグラスを置き、タブレットの画面を切り替えた。

そこには、SNSの底「2いいね」の深海で、孤独に悲鳴を上げ続けていた地方病院の看護師――『美咲』のアカウントへのダイレクトメッセージの画面が開かれていた。

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