第6話:一匹狼の端末、タイムラインの「泥」
東桜市役所の地下室に、ふたたび静寂が戻っていた。サーバーラックの吐き出す冷風だけが、放心状態の渡辺の首筋を虚しく叩き続けている。
画面の端で明滅する、赤文字のエラーログ。
『外部へのデータ複製ログを検出:宛先・不明(暗号化通信)』
渡辺は、硬直した指でキーボードを叩き、そのアクセス元のバックトレースを試みた。財政課の管理端末から、介護保険給付管理システムへ潜り、暗号化された端末コードを逆引きしていく。
「誰だ……誰が抜いたんだ……」
画面の文字列が激しくスクロールし、やがて一本の固定IPに収束した。
表示されたのは、役所の組織図にはどこにも存在しない、個人事業主の登録名だった。
『燈馬介護支援主任事務所(コード:147-TOUMA-026)』
「燈馬……」
渡辺の脳裏に、さっき窓口で佐藤清が呟いた言葉がフラッシュバックした。
『燈馬さんにも相談せず、勝手に決めて良かったんかいな……』
あの老人の担当ケアマネジャーだ。
役所が引いた綺麗なレール(マニュアル)の外側で、25年間、介護保険制度の泥水をすすりながら現場を這い回ってきたという、一匹狼の男。
金子係長が「ノイズに過ぎない」と切り捨てた個人の端末が、役所が最も隠したがっていた国家の裏帳簿を、消去のコンベアの寸前で完璧に掠め取っていったのだ。
――同じ時刻。
市役所から三キロほど離れた、築四十年の一棟雑居ビル。その三階にある、看板も出していない薄暗い事務所で、燈馬は液晶画面の前にいた。
五月のねっとりとした西日が、ブラインドの隙間から差し込み、狭い室内に縞模様の影を落としている。エアコンのスイッチは入っていなかった。部屋の中は、頭の中まで沸騰しそうなうだるような暑さだったが、燈馬は上着も脱がず、ただじっと画面の数字を凝視していた。
「……やっぱりな」
燈馬は低く呟き、煙草に火をつけた。
吐き出された紫煙が、ファンの回るノートPCの熱気に巻かれて、天井へと頼りなく昇っていく。
彼の目の前に展開されていたのは、たった今、東桜市の共有サーバーのゴミ箱から自動スクリプトで引き抜いたばかりのPDF――『2026年度以降における人口動態の代謝シミュレーション』の全データだった。
「1.2ヶ月、か。ずいぶんと舐められたそろばんを弾きやがる」
燈馬は煙草を灰皿に押し付け、デスクの上に散乱した「佐藤清」の紙のカルテを指先で弾いた。
そこには、ここ数ヶ月の佐藤のリアルな生活の足跡が、燈馬の手によって微細に記録されていた。
『〇月〇日:独居。調理時の消火確認にやや遅れあり。ただし、近隣の惣菜店への買い物、金銭管理は自立。自民党のテレビ番組を好んで視聴。国への信頼感、極めて高。オーラルフレイル検診の通知を気にしている様子あり』
燈馬は、25年前の介護保険創設期からこの業界の裏も表も見てきた。
国が新しい「カタカナ語」を流行らせ、無料の義務検診を始めた時点で、現場の古い直感がアラートを鳴らしていた。
本当に老人の健康を願うなら、国はまず末端の介護士の給料を上げ、特養のベッドを増やすはずだ。だが、実際に起きているのは、現役ケアマネへの書類負担の倍増と、介護医療院への不自然な看板の掛け替え、そして相模湖のような「最新鋭の医療特区」への予算の集中。
すべては、元気な老人を「病気」という名の網にかけ、外部の目の届かないブラックボックスへ一括移送するための包囲網。
「佐藤のじいさん、役所の窓口に行っちまったな」
燈馬はスマホの画面を見た。佐藤の携帯に何度かけても、呼び出し音の後に「電波の届かない場所にあるか……」という無機質なアナウンスが流れるだけだった。
すでに網は絞られ、家畜の出荷手続きは完了している。
「財政課の小僧が確定ボタンを押しやがったか。だが、帳簿を燃やせばすべてが消えると思うなよ、お役人様」
燈馬は、引き抜いたばかりの真っ黒な「代謝計画」のファイルを、私物の暗号化ストレージへと移送した。
そして、画面の隅で点滅している、ある匿名の看護師のアカウント――「2いいね」の深海で溺れている美咲のポストへと、メッセージを打ち込み始めた。
五月の陽炎が、窓の外で不気味に揺らめいている。
一億総出荷という国家ハックのタイムラインに対し、25年の泥を武器にした一匹狼のゲリラ戦が、このうだるような熱気の中で静かに幕を開けようとしていた。




