第5話:承認ボタン、魂の売買契約
冷え切った地下室の空気の中で、金子が差し出してきたボールペンのクリップが、サーバーラックの青い光を反射して冷たくギラついた。
「どうした。確定ボタンを押すだけだ。それで君の今日の『だるいルーティンワーク』はすべて完了する」
金子の声には、脅迫のニュアンスすら含まれていなかった。それが逆に恐ろしかった。彼はただ、明日の天気予報を告げるかのように、国家の冷徹な正論を執行しようとしている。
渡辺の指先が、キーボードの上で完全に凍りついていた。
画面のデスクトップの隅、ゴミ箱のアイコンの横には、まだ消去されずに残っている『人口動態の代謝シミュレーション』の進捗バーが「待機中」のまま静止している。
このボタンをクリックすれば、あの窓口で佐藤清から毟り取った青い承諾書も、1.2ヶ月という悍ましい出荷タイムラインも、すべては財政健全化という美しい行政用語の裏に埋没する。
誰も知ることはない。大衆はテレビの前で「少子化対策の予算が増えて良かった」と呑気に拍手を送り、団塊の世代は「手厚い無料検診」に感謝しながら、相模湖のコンベアベルトへ自らの足で歩いていく。
「……金子係長。佐藤さん、言ってたんです」
渡辺の口から、乾いた声が漏れた。
「ん?」
「『本当に、私の健康を心配しての施設なんだな』って。嬉しそうに、国や役所を信じて、あのサインを書いたんです。僕たちは、あの人たちの信頼をそのまま、肉を締めるまな板へ横流ししてるんじゃないですか」
「信頼、か」
金子は低く鼻で笑い、差し出していたボールペンを胸ポケットへ戻した。
「渡辺くん。君はまだ、自分が『現役世代』という、家畜を食う側の人間だという自覚が足りないようだ。いいか、あの佐藤という老人が、あと10年生き延びて、寝たきりで月に数十万円の医療費を食い潰し続けたとしよう。その金を払うのは誰だ? 君の給料から天引きされる住民税であり、これから生まれてくる君の子供たちの未来の借金だ」
金子はデスクを強く叩いた。乾いた音が地下室に響き渡る。
「あの世代は、逃げ切れると信じ込んでいる。自分たちが現役時代に納めた、はした金のような年金だけで、死ぬ間際まで最高峰の医療のサブスクを享受できると本気で思っている。その傲慢なそろばん勘定を、誰が修正するんだ? 行政がやらなくて、誰がやる」
金子の目は、狂気ではなく、極限まで研ぎ澄まされた「官僚の正義」で満ちていた。
その正論の前に、渡辺の貧弱な倫理観は、5月の猛暑に晒された氷のように一瞬で溶けていく。
この国を維持するためには、最も分厚い人口の塊を、1日でも早く、1円でも安く「代謝」させるしかない。それが、2026年というこの時代の、残酷な最適解。
「……分かりました」
渡辺は、深く息を吐き出した。脳の中まで沸騰しそうだった熱気が、完全に冷え切り、感覚が麻痺していく。
マウスを握り、カーソルを動かす。
画面の『完全消去』の文字の上に矢印を合わせ、人差し指に力を込めた。
カチリ。
無機質なクリック音が響き、プログレスバーが一瞬で100%に達して消滅した。
東桜市役所の共有サーバーから、国家による最終代謝計画の生々しい形跡が、完全に消去された瞬間だった。
「よくやった、渡辺くん。君は正しい選択をした。来月からの人事評価、楽しみにしておきなさい」
金子は満足そうに渡辺の肩を叩くと、軽い足取りで地下室を去っていった。鉄扉が閉まる重い音が、渡辺の耳の奥で、カランと虚しく残響した。
独り残された地下室で、渡辺は液晶画面の光に照らされながら、ただ立ち尽くしていた。
自分の手が、何十万人もの老人のタイムラインを強制終了させるスイッチを押したのだという実感が、じわじわと全身の血を凍らせていく。
その時、渡辺が閉じたはずのPCの画面の片隅に、1通の「システムエラー」の通知がポップアップした。
『外部へのデータ複製ログを検出:宛先・不明(暗号化通信)』
「……え?」
渡辺の目が大きく見開かれた。金子が部屋に入ってくる直前、渡辺がパニックで操作していた回線のログだ。消去ボタンを押すコンマ数秒前、何者かがこのサーバーのデータを、外側から「引き抜いて」いた。
そのIPアドレスの偽装元には、東桜市の介護報酬データを管理する、1人の一匹狼のケアマネジャーの端末コードが記録されていた。




