第4話:上司の足音、書き換えられた「血の予算」
「……はい、財政課の渡辺です」
震える指で通話ボタンをスライドさせ、耳元に押し当てる。サーバーラックの吐き出すファンの音が、受話器の向こうの沈黙を妙に引き伸ばした。
『渡辺くん? 今どこにいる。高齢福祉課の応援シフト、もう終わっただろ』
スピーカーから漏れ出す上司の、いつもの低く抑えられた声。東桜市役所の財政を長年牛耳ってきた査定係長の金子だ。普段なら何とも思わないその無機質なトーンが、今は冷徹な死刑宣告のように渡辺の鼓膜を震わせた。
「あ、すみません。サーバー室の古いログの整理を、引き継ぎで頼まれていまして。今、地下の第一サーバー室です」
『そうか』
金子の声には抑揚がなかった。だが、受話器の奥から、コツン、コツンと不自然な音が聞こえる。コンクリートの階段を、革靴が降りてくる音。
渡辺の心臓がどくんと跳ねた。スマホを耳に当てたまま、地下室の鉄扉を凝視する。
『ちょうどいい。そこにいろ。今そっちに行く』
ツーツーという電子音が響き、回線が切れた。
渡辺は弾かれたようにPCの画面に視線を戻した。液晶に浮かび上がる『人口動態の代謝シミュレーション』。1.2ヶ月という数字。国庫へ逆流する財源の折れ線。
「消さなきゃ……」
マウスを握る手のひらが汗で滑る。ブラウザのタブを閉じ、共有サーバーの接続を切り、履歴をシュレッダーにかける。焦れば焦るほど、OSの砂時計マークが意地悪に回転を続けた。
ガチャリ、と重い鉄扉のラッチが上がる音がした。
「渡辺くん」
開いた扉の隙間から、五月の生ぬるい空気とともに金子が入ってきた。
きっちりと三つ揃えのスーツを着込み、ネクタイの結び目一つ緩めていない。この地下室の冷気の中でも、その男の周囲だけは、役人の執念が発する独特の熱気が澱んでいるように見えた。
「終わったかね、ゴミ掃除は」
金子は渡辺の背後に回り込み、液晶画面を覗き込んできた。
渡辺は間一髪でデスクトップの壁紙に戻していたが、金子の細い目は、画面の右下でまだ点滅していたサーバーの「通信中」のログを見逃さなかった。
「……君は優秀だから、財政課の予算の組み替えに違和感を持ったんだろう。高齢福祉課の『特区誘導推進費』の、あまりの不自然さにね」
金子はデスクの端に腰掛け、冷たい目で渡辺を見下ろした。
「金子係長、これ……なんですか。ゴミ箱に残っていた、このシミュレーションのデータ。団塊の世代の寿命を、意図的に『1.2ヶ月』に設定して予算を逆算してる。こんなこと、普通の医療や介護じゃあり得ないじゃないですか。これじゃまるで、ただの――」
「出荷だな」
金子は、渡辺の言葉を遮るように、事も無げにその単語を口にした。
「……!」
「言葉を選ばなくていい。これは、我が東桜市、ひいてはこの国が生き残るための『最終代謝計画』だ。君も知っての通り、今年で団塊の世代が全員後期高齢者になった。これまでの綺麗事の福祉を続けてみろ。来年にはこの市の現役世代の住民税は一律で一・五倍、介護保険料は倍になる。そうなれば、まともな若者から順番にこの街を捨てていく。後に残るのは、社会の血を吸い尽くすだけの、動けない老人たちだけだ」
金子は一歩、燈馬がいた窓口の方を指差すように近づいた。
「だから、上流がシステムをハックしたんだ。国民皆歯科検診や目の検査で『フレイル』の網を張り、引っかかった家畜を特区という名のまな板へ集める。そこで、あの若い九条の会社が、面会制限という最高の隠れ蓑を使って、最速で『処理』を完了させる。
浮いた医療費と、早期に回収された相続税は、すべて『子供家庭庁』の少子化財源に流し込まれる。これが、増税なしで少子化を食い止めるという、国策の本当の裏計算だ。現役のお前たちだって、その恩恵を預かる側なんだぞ?」
金子の言葉は、まるで洗脳の呪文のように、地下室の冷気の中にドロドロと溶けていった。
窓口で、嬉しそうに「公費だから」「お得だから」とサインをしていた佐藤清の笑顔が、渡辺の脳裏でバラバラに砕け散る。
「さあ、渡辺くん。理解できたら、その手元のPCにある『データ消去の確定ボタン』を押しなさい。君が今日見たものは、財政課の通常業務のノイズに過ぎない」
金子は、自分の胸ポケットから一本の高級なボールペンを取り出し、渡辺の前に差し出した。
それは、役所の書類に「承認」のハンコを捺すための、冷徹な大人の道具だった。




