第15話:二進法のゲリラ戦、コンベアの軋み
ボイラー室の冷え切った空気の中に、燈馬の中古PCから発せられる微かな警告音が鳴り響いていた。
画面のインジケータは、国家の検閲アルゴリズムと、燈馬が25年間かけて裏社会で構築してきたP2Pの暗号化回線が、目に見えない光ファイバーの網の目で激しく殴り合っている様子を弾き出している。
『分散放流中:ノード数 14…… 42…… 108……。中央ゲートウェイによる遮断プロトコルと交戦中』
「何をしてる、渡辺くん! 今すぐその端末の通信を物理的に遮断しろ!」
さっきまでの軽薄な笑みを完全に消し去った九条が、渡辺の胸ぐらを掴まんばかりに叫んだ。
渡辺は引きつった顔でタブレットを操作し、管理画面のログを血眼で追う。だが、その指先は凍りついたように震えていた。
「だ、ダメです……! 彼の端末、東桜市の福祉システムだけじゃなく、全国の介護報酬請求(国保連)の古いバックボーン回線を踏み台にして暗号を分散させてます! ここを完全に遮断するには、国内の介護決済システムそのものを一時的に全面ストップさせるしかない……!」
「チッ、25年分の泥ってのは、システムの根腐れした配管のことかよ……!」
九条が吐き捨て、ボイラーの陰に控えていた「白いガウン」の男たちに顎で合図を送った。
男たちが、無機質な足音を立てて燈馬へと距離を詰めていく。その手には、5月の豪雨の湿気すら弾く、あの『Aβ-Direct-026』が装填された鋭いシリンジが握られていた。
燈馬はPCから手を離さず、迫り来る男たちを冷徹に見据えた。左肩の激痛は、すでに感覚の彼方へと消え去り、代わりに全身の血が沸騰するような怒りだけが、彼の肉体を支えていた。
「九条、そして渡辺。お前たちの弾いたそろばんはな、数字としては完璧かもしれない。だが、一つだけ決定的な『現場のファクト』を計算に入れてねえんだよ」
燈馬は、右手の指先を一度だけ力強く叩いた。
「介護ってのはな、どれだけ書類をハックして、画面の笑顔をディープフェイクで書き換えても……最後は『生身の人間』がその肉体を抱え、そのクソを拭き、その命を看取る現場の泥の上でしか回らねえんだよ」
ドゴォン!
次の瞬間、ボイラー室の頑丈な防音扉が、外側から凄まじい質量によって力任せに蹴破られた。
金属の引き裂かれる狂ったような大音が地下室に反響し、九条たちが思わず耳を塞いで後退する。
「な、何だ!?」
立ち込める塩素の白煙の向こうから現れたのは、白いガウンの男たちではなかった。
それは、ボルトカッターや、施設から強引に引き抜いてきたベッドの柵、重い点滴スタンドを武器のように握りしめた、泥塗れの男たちだった。新橋のガード下で「ラクになって最高だ」と笑っていたはずの拓也、そして近隣の施設から燈馬のゲリラ回線(SOS)を傍受して集まってきた、最前線の若手介護士や看護師たち――システムに思考をプログラミングされていたはずの、末端の『肉体労働者たち』だった。
彼らの先頭には、骨と皮ばかりに痩せ細り、拘束帯を引きちぎってなお、うつろな目でしっかりと自立している老人の姿があった。
佐藤清。
「じいさん……」燈馬が呟く。
佐藤の目はまだ焦点が合っていなかった。だが、その手には、彼が窓口で渡辺に騙されて書かされた、あの『青い承諾書』が、怒りでくしゃくしゃに握りしめられていた。
アルツハイマーの薬物で脳を破壊されかけてもなお、25年間自分を支え続けてくれた「担当ケアマネ」の危機に、老人の生きた肉体の底に残っていた生存本能が、システムを拒絶して暴れ出したのだ。
「お、前ら……なんでここに……」
渡辺が呆然と声を漏らす。
「渡辺さん」
拓也が、雨と汗に濡れた顔で、激しい怒りを孕んだ目を渡辺に向けた。
「俺たち、頭は良くねえから、あんたたちの弾く『国家の財政』なんて難しい数字はわかんねえよ。でもな……毎日毎日、昨日まで飯を美味そうに食ってたじいさんばあさんが、2ヶ月持たずに綺麗な死体になって出荷されていくコンベアの歯車をやらされるの、もう限界なんだよ! 現場の泥を、舐めんじゃねえ!」
「処理対象が増えただけだ、やれ!」
九条が狂ったように叫ぶ。
白いガウンの男たちがシリンジを構えて飛びかかろうとした瞬間、豪雨の湿気を孕んだ地下室で、25年分の抑圧された現場の怒りが、国家の最高級のシステムに向かって、生身の質量となって一斉に炸裂した。




