第08話:混線
放課後だった。
気づけば、俺は誰もいない教室で夕陽を見ていた。
昼休みの続きではない。あのチャイムの後、五時限目も六時限目も、記憶にない。飛んだのだ。フィルムを何コマか抜かれたように、時間が。
窓の外はオレンジ色に焼けていた。校庭に生徒の姿はない。カーテンが揺れている。風は感じないのに。
この学園に来てから、放課後を見るのは初めてだった。
ループが崩れたのか。それとも、ループの外側に別の時間があるのか。
考えを組み立てようとした、その時だった。
喉が詰まった。
息が、吸えない。
反射的に喉に手をやる。管はない。気道は塞がっていない。なのに、胸の内側から誰かに掴まれているように、肺が広がらない。
狭い。
暗い。
閉じ込められている。
壁が近い。天井が近い。誰かがこちらを覗き込んでいる。ガラス越しに。何人も。何人も。目、目、目——
俺は机の縁を掴んだ。
違う。
これは、俺のじゃない。
俺は閉所で恐慌を起こす訓練不足の新兵ではない。潜水、地下壕、装甲車両の車内。閉鎖環境の耐性試験は全て通過している。この息苦しさには、俺の履歴がない。恐怖には持ち主の癖が出る。これは俺の癖じゃない。
誰のだ。
問うまでもなかった。
「——っ」
教室の後ろで、小さく息を呑む音がした。
振り向くと、彼女がいた。
窓際の、一番後ろの席。定位置のように、そこに座っていた。両手で自分の胸元を押さえて、俺を見ている。
顔色が、白い。
「今の……あなたの?」
彼女が先に言った。
「冷たい台の上にいた。腕に、何か刺さってて。息が、機械の音と一緒じゃないと吸えなくて——」
それは俺の身体だった。
外の、実験施設の寝台の上の。
「あなたの身体」
彼女は言った。確信と怯えの混ざった声で。
「外で、もう保たない」
「……なぜ分かる」
「分からない」
即答だった。
「分からないの。ただ、流れてきた。あなたのが、こっちに。……わたしのも、そっちに行ったんでしょう。今」
俺は頷く代わりに、まだ強張っている自分の肺を確かめた。
彼女の息苦しさ。俺の死にかけた身体。
混ざっている。
昨日までは、会話が残るだけだった。今は、感覚が漏れている。開いた、という現実側の声を思い出す。開いたのは、これか。
ざ、と耳の奥で砂が鳴った。
噂をすれば、だ。
『接続を維持しろ。数値を落とすな』
男の声。研究側の、あの落ち着いた声。
『いや、切断だ。バイタルが限界を——』
別の男。指揮系統の声。
『対象に接触させろ。今が』
『これ以上近づけるな!十七号が』
声が重なる。混線している。どれが命令で、どれが撤回なのか、判別できない。
接続を維持しろ。切断しろ。接触させろ。近づけるな。
軍の通信は、こうはならない。命令系統の一本化は鉄則だ。矛盾した命令が同じ回線に乗る時、それは指揮の崩壊か——最初から、指揮が二つある時だ。
救出任務に、指揮は一つでいい。
これは、救出任務じゃない。少なくとも、それだけじゃない。
ノイズが引いた。
教室は静かだった。夕陽が、机の列に長い影を作っている。
「ねえ」
彼女の声がした。
「さっき、あなたの中に……わたし、見えたの。あなたが呼ばれてるところ。番号で。何度も、何度も」
被験者十七号。
「呼ばれるたびに、あなた、少しずつ薄くなってた」
自覚はなかった。だが、否定もできなかった。
そして——流れ込んできた。
今度は息苦しさではなかった。
声だ。誰かが、名前を呼んでいる。優しい声で。正しい発音で。完璧な呼び方で。
なのに、呼ばれた瞬間、輪郭が溶ける。
自分の形が、呼ばれた名前の形に、外側から押し込められていく。粘土を型に詰めるように。はみ出した部分は、削ぎ落とされる。名前が自分を呼んでいるのではなく、名前が自分を上書きしていく。呼ばれるたび、呼ばれた通りのものに、させられていく——
感覚が引いた。
俺は息を吐いた。手のひらに汗が滲んでいた。
これが、彼女の見ているものか。
名前という、あの怯え方の中身。
理屈は分からない。誰に呼ばれたのか、何があったのかも分からない。だが、少なくとも一つだけ理解した。彼女にとって名前は、贈られるものじゃない。押し付けられて、自分を消すものだった。
だから俺は決めた。
聞かない。
彼女の名前を、俺からは聞かない。
任務手順で言えば、対象の識別情報の確認は基本中の基本だ。だがその手順は、もう棚に上げた。荷物には名札が要る。人間には、要らない時がある。
「……わたし、変なこと言った?」
彼女が俺の顔を覗き込んでいた。
「いや」
俺は首を振った。
「何も聞かない。君が言いたくなるまで」
彼女は、少しの間、黙っていた。
それから、視線を落とした。
その目が、俺の腕で止まった。
「……痛い」
「え?」
「痛いよ、それ」
彼女は自分の右腕を押さえていた。俺の右腕と、同じ場所を。
見下ろすと、制服のシャツの袖口から覗く前腕に、赤い筋が浮かんでいた。
切り傷ではない。内側から滲むような、細い赤。現実の身体で裂けているはずの、あの場所に。
この身体は仮想のはずだ。痛みのデータなど、入力された覚えはない。
なのに彼女は、俺より先に、俺の痛みに顔をしかめている。
夕陽が、教室を焼いていた。
どこか遠くで、下校を促す放送が、砂の混じった声で何かを言いかけて——途切れた。




