第07話:対象ではなく
きんこんかんこん。
四時限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。
何度目かは、もう数えていない。
弁当箱を開く音。机を寄せる音。廊下を走る足音と、それを咎める誰かの声。購買のパンが売り切れると騒ぐ男子。窓際で笑う女子の一団。
全部、知っている。
この後、三分ほどで中庭側の窓から歓声が上がる。ボールが校舎の壁に当たる。誰かが弁当を落とす。廊下の先で花瓶が割れる。
同じ昼休み。
同じ配置。
同じ音。
俺だけが、上書きされずに残っている。
いや。
俺だけではない。
彼女との会話も、残っている。
俺は席を立った。
繰り返すのなら、利用するまでだ。
偵察は反復に強い。同じ状況を何度も踏めるなら、変数を一つずつ潰せる。どの経路で、どの時間帯に、どういう状態で動けば、彼女に会えるのか。
最初の数回は、任務手順どおりに動いた。
対象の所在確認。接触経路の確保。回収地点の選定。
頭の中でそう組み立てながら、四階への階段を上る。
だが、上れない。
正確には、上っているのに、着かない。
踊り場を曲がるたび、同じ踊り場に戻される。窓の外の景色は変わらないまま、蛍光灯の明滅だけが少しずつ速くなる。廊下の遠近が狂い、突き当たりが引き伸ばされていく。
あの歪みだ。
初めて彼女に会った時の、四階の廊下。あれと同じ癖のある歪み方。
ただ、あの時より拒絶が強い。
俺は足を止め、壁に手をついた。
呼吸を数える。
……数えられない。
自分の脈が、速いのか遅いのか、分からない。訓練では、暗闇でも自分の心拍で時間を測れた。その身体感覚が、この身体には通用しない。いや、通用しないのではなく、信号そのものが濁っている。外の肉体の劣化が、こちらの感覚にまで滲んでいるような濁り方だった。
考えろ。
何が変わった。
経路は同じ。時間帯も同じ。違うのは——俺の頭の中身だけだ。
対象の所在確認。接触経路。回収地点。
俺は今、彼女を「回収する荷物」として組み立てていた。
馬鹿げている、と思った。
この空間が、俺の思考を読んでいるとでも言うのか。
だが、思い当たる節はあった。
「三十二番」と呼んで探した日は、気配すら掴めなかった。「救出対象」として接触を試みた日は、廊下ごと弾かれた。
「君」と呼んだ日だけ、彼女はそこにいた。
呼び方の問題だと思っていた。
違う。
呼び方は、結果だ。
俺が彼女をどう扱っているか。荷物か、人間か。それが先にあって、言葉は後からついてくる。この空間は——あるいは彼女は——言葉ではなく、その前の部分を見ている。
俺は目を閉じた。
任務手順を、一度、置く。
放棄ではない。置くだけだ。そう自分に言い訳をしながら、頭の中の「対象」「確保」「回収」という単語を棚に上げていく。軍人としては失格の思考だった。だが、失格の思考をしない限り、この階段は永遠に同じ踊り場を吐き出し続ける。
残ったのは、単純な一つだけだった。
君に、会いに行く。
目を開けた。
廊下の歪みが、引いていた。
蛍光灯の明滅が止まり、遠くの喧騒が、水底から聞くように遠のいていく。昼休みの音の全部が一枚膜の向こうへ下がり、廊下の突き当たり、窓際の光の中に、彼女が立っていた。
長い黒髪。白い肌。
こちらを見ている。
「また、来たのね」
覚えている。
昨日の——いや、この繰り返しの中の、前回の会話を。
「ああ」俺は歩み寄った。「君との会話だけは、消えない。何度この昼休みが巻き戻っても、それだけは残ってる」
「知ってる」
彼女は窓の外へ目をやった。
「わたしも、覚えてるから。あなたと話したことだけ、次の昼休みに持って行ける。……ほかのものは、ぜんぶ置いていかれるのに」
その横顔に、任務説明室の写真が重なる。
救出対象、という文字と一緒に表示されていた顔。
俺はあの文字を思い出すたび、まだ小さく苛立つ。便利すぎる言葉だ。人間に貼るには。
「ねえ」
彼女がこちらを向いた。
「あなたは、なんて呼ばれているの」
一瞬、答えに詰まった。
この学園での偽名か。部隊での呼称か。それとも。
「……被験者十七号」
口にすると、自分でも驚くほど乾いた響きがした。
「外では、そう呼ばれてる。ここに来る前は、階級と識別番号。作戦中は、救出班。呼び名だけは、いくらでもある」
「それ、名前じゃない」
「ああ」
俺は頷いた。
「名前じゃない。……俺にも、名前はある」
彼女の目が、わずかに見開かれた。
「番号で呼ばれるためにここへ来たわけじゃない。それだけは、確かだ」
言ってから、任務規定のいくつかが頭の隅で警告を鳴らした。身元情報の秘匿。感情的接触の回避。知ったことか、とまでは思えない。思えないまま、それでも撤回はしなかった。
彼女は何かを言いかけた。
唇が開いて、閉じる。
聞きたいのだ、と分かった。俺の名前を。
だが、聞かない。聞けない。名前というものに手を伸ばしかけて、火にかざした指を引くように、途中で止めてしまう。
その怯え方を、俺はまだ理解できていない。
彼女が口を開き直した、その時だった。
ざ、と耳の奥で砂が鳴った。
通信ノイズ。現実側の音だ。管制の定時連絡とは違う、拾うはずのない回線の漏れ。
女の声。計器を読み上げる平坦な声が、途中で乱れて。
『——数値が……こんな、待って、これ』
息を呑む気配。
そして、別の男の声が、低く、確かめるように言った。
『……開いた』
開いた。
何がだ。
問い返す相手はいない。ノイズは砂ごと引いていき、代わりに昼休みの喧騒が膜を破って戻ってくる。中庭の歓声。壁に当たるボール。弁当を落とす音。割れる花瓶。
視界の端で、彼女の姿が光に溶けるように薄れ——
きんこんかんこん。
チャイムが鳴った。
四時限目の、終わりを告げる音が。




