第06話:昼休みの底
昼休みのチャイムが、鳴った。
きんこんかんこん。間延びした音。録音を、同じ位置から再生したような音。俺はもう、その音に馴染みかけている自分が、いやだった。
生徒たちが、一斉に動き出す。弁当を広げる者。購買へ駆ける者。机を寄せて輪になる者。よくある昼休みの風景が、教室いっぱいに広がっていく。
俺は、その風景を見ていた。
そして、気づいた。
これを、前にも見た。
窓際の二つ後ろの席で、誰かが弁当の蓋を開けようとして、手を滑らせる。蓋が床に落ちて、からん、と乾いた音を立てる。周りが笑う。本人が、照れたように頭をかく。
俺は、その一部始終を、知っていた。
蓋が落ちる前に、落ちる、と分かった。笑い声が起きる前に、起きる、と分かった。初めて見るはずの光景なのに、すべてが、二度目だった。
俺は、立ち上がった。
廊下へ出る。窓際を歩く。すると、女子の二人組が話しているのが、聞こえた。
「ねえ、週末どこ行く?」
「うーん、いつものとこでいいよ」
「いつものとこって?」
俺は、その続きを、口の中で先に言った。
「……いつものとこ」
数秒遅れて、二人組の片方が、同じ言葉を口にした。
「……いつものとこ」
顔を見合わせて、笑う。それで会話は終わる。外の地名も、店の名前も、出てこない。
寸分違わなかった。間の取り方も、笑い方も、語尾の上がり方も。俺が前に聞いたものと、完全に同じだった。
俺は、廊下の窓に手をついた。
昼休みが、繰り返している。
いや――昼休みだけではない。授業も、放課後も、繰り返しているのかもしれない。ただ、昼休みは生徒の動きが多いぶん、繰り返しに気づきやすい。誰かが弁当を落とし、誰かが同じ会話をし、誰かが同じ廊下を駆けていく。同じ一日を、何度も上から塗り重ねている。
そして、それに気づいているのは、俺だけだった。
弁当を落とした生徒は、毎回、初めて落としたような顔をする。週末の話をする二人組は、毎回、初めてその話をしたような顔で笑う。彼らにとっては、いつも「一度目」なのだ。繰り返しているという記憶が、残らない。
俺だけが、回数を数えていた。
二度。三度。四度。
昼休みが来るたび、俺は同じ風景を見て、同じ会話を先回りした。そのたびに、何かが、すり減っていく感覚があった。
俺は、自分の身体を確かめた。
空腹。あるはずだ。これだけ昼休みが続いて、何も食べていない。だが、腹は空いているような、いないような、曖昧な感覚しか返ってこない。疲労も、眠気も、輪郭がぼやけている。何度目かの昼休みで弁当を食べたような気もするし、一度も食べていないような気もする。
身体が、数えられなくなっている。
四階で少女と交わした、待ち時間の感覚を思い出した。あのときも、呼吸と脈と疲労が噛み合わなかった。あれが、ここでは常態になりつつある。俺の中の時計は、もう、ほとんど止まりかけていた。
ただ、一つだけ、すり減らずに残っているものがあった。
少女との、会話だった。
昼休みの繰り返しは、見るたびに薄れ、回数の境目が曖昧になっていく。なのに、四階の教室で「君」と呼んだことや、「ここから出たら、わたしはどうなるの」という細い声は、繰り返しの底に沈まずに、はっきりと残っていた。ほかのすべてが上塗りされていく中で、あの会話だけが、上塗りを拒んでいる。
なぜだ。
考えていると、校内放送が鳴った。
ぴんぽんぱんぽん。
「えー、放送委員会から……」
いつもの放送。だが、女性の声が、途中で一度だけ、平坦になった。
「――作戦時間、残り――」
数字は、聞き取れなかった。ざ、というノイズに飲まれて、残り何、までは届かない。だが、確かに「作戦時間」と言った。この、よく出来た昼休みの底に、外の時間が、まだ流れている。
俺は、放送の続きを待った。
「……以上です。みなさん、午後の授業に遅れないように」
元に戻っていた。生徒たちは、何も聞かなかったように、弁当をしまい始める。
残り。
残り、何だ。あの「一〇〇〇」が、どれだけ削られたのか。外で、俺の身体が、どれだけ死に近づいたのか。ここでは測れない。身体感覚は、もう、あてにならない。
俺は、四階へ向かおうとした。
そのときだった。
廊下の、ずっと奥。
少女が、立っていた。
いつのまにか、そこにいた。こちらを見ている。長い黒髪。細い肩。歪んだ四階の廊下ではなく、ごく普通の、二階の廊下に。
彼女は、繰り返す昼休みの風景の中で、ただ一人、静かに立っていた。弁当を落とす生徒も、週末の話をする二人組も、彼女の周りを、何事もなく流れていく。
その流れの中で、少女だけが、止まっていた。
まるで、何度目の昼休みなのかを、数えているように。
俺と、同じ顔で。
彼女は、唇だけを、わずかに動かした。声は届かない。だが、その形は、読めた。
また、来た。
そう言った気がした。
俺は、息を呑んだ。
また、来た。
昼休みが、また来た、と。
彼女も、数えている。
瞬きをすると、廊下の奥に、もう少女はいなかった。流れていく生徒たちの背中だけが、そこにあった。
昼休みの底で、気づいているのは、俺だけではなかった。




