第05話:君と呼ぶ
翌日、と呼べるものが来たのかどうか、俺には分からなかった。
チャイムが鳴り、授業が始まり、終わり、休み時間が来て、放課後になった。その順番は守られている。だが、間の時間が、いつも飛ぶ。気づくと次の区切りに立っている。秒針は、十時で止まったままだ。
俺は、四階を目指した。
階段を上るたび、空気が薄くなるような感覚がある。三階までは普通の学校で、四階だけが違う。光が弱く、扉の並びが歪み、視線を止めると間隔がぶれる。あの廊下。名前のない席の主が、消えていった場所。
奥まで歩いた。
誰もいなかった。
歪んだ扉が並んでいるだけだ。俺は一つずつ、扉を開けてみた。鍵はかかっていない。だが、開けた先は、どれも同じだった。机が並び、黒板があり、窓があり、誰もいない。教室の形をした、空っぽの箱がいくつも続く。
少女は、いない。
俺は廊下の真ん中に立って、待った。
軍人は、待つことに慣れている。動かずにいる時間の使い方を、訓練で叩き込まれる。だから俺は、ただ立って、空気の変化を測った。
呼吸、脈、足の疲労、空腹。時計がなくても、時間を測る手がかりはいくつもある。
だが、この場所では、そのどれもが噛み合わなかった。足は疲れていないのに、腹の奥だけが空いている。脈は速いのに、息は落ち着いている。
どれくらい経ったのか、分からない。
時計が止まっているからではない。
俺の中の時計まで、信用できなくなっていた。
ふと、いちばん奥の教室の扉が、わずかに開いていることに気づいた。
さっきは閉まっていたはずだ。
俺は、そこへ向かった。距離を詰めすぎないように、ゆっくりと。
扉の隙間の向こう、窓際の席に、少女が座っていた。
こちらを見ていない。机の上の、開かれた教科書に目を落としている。だが、文字は追っていない。視線が、紙のずっと奥を見ている。施設のモニターに映っていた少女も、そんな目をしていた。
俺は、扉の手前で足を止めた。
「三十二番」と呼びかけそうになって、やめた。
「対象」とも呼ばなかった。
昨日、それで彼女は閉じた。
俺は、言葉を選び直した。残っていたものを、また使う。
「……君」
少女の指が、わずかに動いた。
教科書のページを、押さえる動き。それだけ。だが、反応した。番号にも、対象にも返らなかったものが、その一語には、かすかに返ってきた。
「入ってもいいか」
少女は、答えなかった。だが、拒みもしなかった。
俺は、扉を開けて、教室に入った。少女から、机二つ分の距離を取って、立ち止まる。近づきすぎない。それは警戒であると同時に、昨日学んだ作法でもあった。
「昨日、番号で呼んだ。悪かった」
少女は、教科書から目を上げた。
黒い瞳が、こちらを見る。深い、と昨日も思った。仮想空間にいる人間の目には見えない。何かを、ずっと奥にしまっている目だった。
「……あなた、変なひと」
少女が言った。
「みんな、わたしを番号で呼ぶ。じゃなかったら、対象って。あなたも、最初そうだった。なのに、謝った」
「呼び方を、間違えた」
「じゃあ、なんて呼ぶの」
俺は、詰まった。
名前を呼べばいい。だが、出てこない。施設で聞いたはずの名前は、相変わらず、頭の中から抜き取られている。
「……名前を、教えてくれないか」
言った瞬間、少女の肩が、びくりと跳ねた。
怯えだった。はっきりとした、怯え。さっきまでの静けさが、一瞬で、固いものに変わった。
「やめて」
声が、細く震えた。
「名前で呼ばないで。……わたし、自分の名前、もう、思い出せないの。呼ばれても、それがわたしのことか、分からない。呼ばれるたびに、何かが……剥がれる気がする」
俺は、口を閉じた。
名前のない席。名簿の空白。あれは、誰かが消したのではないのかもしれない。彼女自身が、名前を手放したのか、奪われたのか。どちらにせよ、名前という言葉は、今の彼女には、刃物に近い。
「分かった」と、俺は言った。「名前では呼ばない。君、でいい。それなら、いいか」
少女は、少しだけ、肩の力を抜いた。
「……うん」
小さな返事だった。
俺は、距離を保ったまま、少しだけ間を置いた。任務の手順なら、ここで帰還誘導の説明に入る。出口の位置、接続の手順、確保の段取り。だが、それを口にしようとすると、喉の奥が、つかえた。この子に、いきなりそれを突きつけるのは、違う気がした。
迷っている自分に、気づく。
任務として処理するべき対象に、迷う必要はない。なのに、迷っている。それが、軍人としての俺には、ひどく落ち着かなかった。
少女のほうが、先に口を開いた。
「あなた、外から来たの」
昨日と、同じ問いだった。
「ああ」と、俺は答えた。
「外って、どんなところ」
俺は、答えようとした。
外。空がある。街がある。人が大勢いて、車が走り、海があって――
だが、言葉が、欠けた。
「外には、空が……あって、それから、」
ざ、と頭の奥でノイズが走った。施設の、平坦な女の声が、一瞬だけ混ざる。「――数値、確認――」。続けようとした言葉が、その雑音に飲まれて、消える。海、と言おうとしたのか、街、と言おうとしたのか、自分でも分からなくなった。
「それから……」
もう一度、口を開く。だが、外の景色を言葉にしようとするたびに、その部分だけが、するりと抜け落ちる。覚えているはずなのに、口に乗せた瞬間に、形をなくす。
俺は、外を、彼女に伝えられなかった。
少女は、そんな俺を、静かに見ていた。責めるでもなく、がっかりするでもなく。むしろ、知っていた、とでもいうような顔だった。
それから、彼女は、ぽつりと言った。
「ここから出たら、わたしはどうなるの」
俺は、答えられなかった。
外を語れない俺が、外へ連れ出したあとのことなど、語れるはずもなかった。
少女は、また教科書に目を落とした。文字を追わない目で。窓の外には、よく描けた青空が、動かないまま広がっていた。




