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第04話:名前のない席

角を曲がった。


廊下が、まっすぐ伸びている。窓が並び、外の光が床に等間隔の四角を落としている。生徒の姿は、もうまばらだった。放課後の気配。だが、放課後がいつ来たのかは、思い出せない。さっきまで休み時間だったはずだ。時間が、また一区切り飛んでいる。


黒髪の後ろ姿は、廊下の奥にあった。


ゆっくりと、階段へ向かっている。追いつけない速さではない。なのに、距離が縮まらない。俺が一歩詰めると、向こうも一歩遠ざかる。そういう廊下なのか、そういう歩き方なのか、見分けがつかなかった。


俺は歩調を上げた。軍靴ではない、上履きの足音が、やけに軽い。


少女が、階段を上っていく。


三階。四階。


四階は、掲示板の見取り図で確かめた階だった。図には描かれているのに、どの廊下からも行けないはずの教室が、いくつもある階。


階段を上りきると、廊下の奥に、その一角があった。


ほかの階と、空気が違った。


窓から差すはずの光が、なぜか弱い。床のリノリウムの艶が消え、扉の並びが、少しずつ歪んでいる。まっすぐ並んでいるはずの教室の扉が、奥へ行くほど、間隔が詰まったり開いたりしている。目で測ると、確かにおかしい。視線を外すと、また普通の廊下に見える。


その歪んだ廊下の、いちばん奥。


少女が、立っていた。


今度は、こちらを向いていた。


長い黒髪。白い肌。細い指。写真で見た顔だ。間違いない。だが、写真の中の、こちらを見ていなかった少女とは、別の何かがそこにあった。彼女は、確かに俺を見ていた。


俺は足を止めた。距離は、十歩ほど。


近づきすぎてはいけない、と判断する。対象の状態が不明なとき、まず距離を取って観察する。それも、身体が覚えた癖だった。


俺は口を開いた。


「三十二番」


名簿で覚えた番号を、呼んだ。


少女は、反応しなかった。聞こえなかったのではない。聞こえているのに、それが自分のことだと、結びついていない顔だった。番号と自分の間に、何のつながりも感じていない。


俺は言い直した。


「……救出対象。迎えに来た。ここから出る手伝いをする」


対象、という言葉を口にした瞬間、廊下の空気が、わずかに張った。


少女の表情が、変わった。


怒りではない。怯えでもない。もっと静かな、何かが閉じる音のような変化だった。さっきまでこちらを見ていた目が、ふっと、奥へ引っ込んだ。


「……それ、わたしの名前じゃない」


少女が、言った。


低くて、細い声だった。


「番号も、対象も、わたしの名前じゃない」


俺は答えに詰まった。


ならば、名前を呼べばいい。そう思った。だが、出てこない。施設で聞いたはずの名前。書類にあったはずの名前。その一点だけが、相変わらず白く塗りつぶされていて、俺の頭から、まるごと抜き取られている。


俺は、彼女の名前を知らない。


名簿の、空白の欄を思い出した。

塗りつぶされたのでも、消されたのでもない。

最初から、何も書かれていなかった欄。


名前のない席に、座る一人。


「……すまない」


俺は、そう言っていた。


自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。任務の手順に、謝罪などない。対象に詫びる項目は、どこにもない。だが、口が勝手に動いていた。


「番号で呼んだ。それは、間違いだった」


少女は、少しだけ目を上げた。


奥へ引っ込んでいたものが、ほんのわずか、こちらへ戻ってきた。


俺は、言葉を選んだ。選んだというより、残っていた言葉を、そのまま使った。番号でもなく、対象でもなく、名前も呼べない。なら、残るのは一つしかなかった。


「君は、ずっとここにいるのか」


君、と。


その一言を口にしたとき、歪んでいた廊下の扉の間隔が、ほんの一瞬、まっすぐに揃った気がした。気のせいかもしれない。瞬きをすると、また少しずつ歪んでいた。


少女は、しばらく黙っていた。


それから、ひどく静かに、口を開いた。


「あなたは、外から来たの?」


俺は、息を呑んだ。


外。この閉じた空間が「外」を持たないことを、誰よりも知っているはずの彼女が、その言葉を口にした。


答えようとした。


だが、そのとき、足元の床が、ぐにゃりと遠ざかる感覚があった。


胸の奥で、知らない鐘が鳴る。施設で聞いたのと同じ、耳ではなく記憶の底で鳴る音。視界の端が、赤く滲んだ。一瞬だけ、あの暗い観測室と、止まりかけた心電図の音が、廊下に重なった。


外の身体が、限界を訴えている。


俺が瞬きをしたとき、廊下の奥に、もう少女はいなかった。


名前のない席の主は、また、どこかへ消えていた。


俺は、誰もいない歪んだ廊下に、一人で立っていた。


君、と呼んだ感触だけが、口の中に残っていた。

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