第03話:学校の形
廊下を歩きながら、俺は数えていた。
窓の数。教室の扉の数。消火器の位置。曲がり角。階段。歩幅で距離を測り、頭の中に見取り図を作っていく。誰に教わったわけでもない。身体が勝手にやる。知らない建物に入ったら、まず出口を把握する。生き残るための、いちばん古い癖だった。
校舎は、四階建てらしかった。各階に教室が並び、両端に階段がある。よくある学校の造りだ。
俺はまず、一階を目指した。
出口を見つける。それが最初だ。閉鎖環境かどうかは、外へ出られるかどうかで分かる。
階段を降りる。生徒たちとすれ違う。誰も俺を気に留めない。階段の手すりは冷たく、足音は普通に響いた。踏み板の軋みも自然だった。よく出来ている、と思う。よく出来すぎている。
一階に着いた。
正面に、昇降口があった。靴箱が並び、その向こうにガラスの扉。外には校門と、まばらな並木と、青空。
俺は、そこへ向かって歩いた。
靴箱の前まで来た。自分の名前のシールが貼られた箱に、上履きから履き替える靴がある。当然のように、足が知っている。俺はそれを無視して、ガラス扉へ手を伸ばした。
外の光が、すぐそこにある。
扉を押す。
――押した、はずだった。
次の瞬間、俺は廊下に立っていた。
昇降口ではない。二階の、見覚えのある廊下。さっき通った曲がり角。窓の外には、同じ校庭。
手のひらには、まだガラスを押した感触が残っている。
俺は動きを止めた。
記憶が飛んだのではない。意識は途切れていない。扉を押して、外へ出ようとして、気づいたら廊下にいた。間の動作が、まるごと省略されている。フィルムの一部を切って、前後を貼り合わせたように。
もう一度、試す。
階段を降りる。一階。昇降口。ガラス扉。手を伸ばす。押す。
廊下に立っている。
今度は三階だった。
三度目。四度目。結果は変わらない。出口へ手を伸ばすたび、俺はどこか別の廊下へ戻された。そのつど、戻される場所は違う。だが、外へは一歩も出られない。
生徒たちは、相変わらず自然に行き交っている。誰も、出口へ向かおうとはしない。出ようとする人間が、ここには俺しかいない。
閉鎖環境。
確定だ。これは学校の形をしているだけの、閉じた空間だった。
俺は出口を諦めた。出られないなら、内側を知る。
次に向かったのは、職員室の脇にある掲示板だった。
校内の見取り図、行事予定、進路情報。よくある掲示物が並んでいる。俺は見取り図を確かめ、頭の中の図と照らした。おおむね一致する。だが、四階の一部に、図には描かれているのに、どの廊下からも行けない教室がいくつかあった。
行事予定の紙に、日付が並んでいる。
俺はそれを読もうとした。
読める。だが、視線を止めて確かめようとすると、数字がぶれた。何月何日と書いてあるはずなのに、目を凝らした瞬間だけ、文字が霞んで読み取れない。視線を外せば、また「日付らしきもの」に戻る。
俺は掲示板の端にあった、クラス名簿に目を移した。
出席番号順に、名前が並んでいる。
隣の眼鏡の名前があった。前の席の連中の名前もあった。知っている名前ばかりだ。会ったこともないのに、頭が勝手に覚えている名前。
その中に、一つだけ、空白があった。
番号は振られている。だが、名前の欄が、空いている。塗りつぶされたのでも、消されたのでもない。最初から、そこに何も書かれていないように見える。
俺は、その空白を見つめた。
胸の奥が、わずかに引かれた。
あの少女だ、と思った。確証はない。だが、名簿に一人だけ欠けている名前があって、俺の頭の中にも一人だけ思い出せない名前がある。重ならないわけがない。
名前を、消された一人。
俺は空白の番号を覚えた。三十二番。
そのとき、校内放送が鳴った。
ぴんぽんぱんぽん、と間延びしたチャイム。続いて、女性の声。
「えー、放送委員会から……連絡が……」
ありふれた校内放送だった。
だが、途中で声が裏返った。
ざ、ざざ、と短いノイズが走り、声が一瞬だけ別のものになった。平坦で、感情のない、若い女の声。
「――被験者十七号、数値、確認――」
俺は足を止めた。
次の瞬間には、放送は元に戻っていた。
「……以上です。みなさん、放課後の戸締まりをお願いします」
ぴんぽんぱんぽん、と締めのチャイム。それきり、放送室からは何も聞こえない。
被験者十七号。
それは、俺の番号だった。施設で、女の声がそう呼んでいた。
外の声が、内側へ漏れている。
あるいは、内側の俺に、外の声を届けようとしている。
俺は周囲を見た。生徒たちは、何も聞かなかったように歩いている。あのノイズに反応した者は、一人もいない。
俺だけが、聞いた。
俺は、廊下の窓に近づいた。外の世界を、もう一度確かめたかった。
近くで、女子の二人組が話していた。
「ねえ、週末どこ行く?」
「うーん、いつものとこでいいよ」
「いつものとこって?」
一瞬、間が空いた。
「……いつものとこ」
二人は顔を見合わせて、笑った。それで会話は終わった。どこ、とも、何の店、とも、ついに出てこなかった。外の地名も、駅も、店の名前も、彼女たちの口からは何ひとつ出てこない。学校の中のことなら、いくらでも喋るのに。
外の世界の話だけが、薄い。
だが、そこから一歩でも外へ出ようとすると、言葉が急に輪郭を失う。
俺は窓ガラスに、額を近づけた。
校庭。並木。青空。
外と呼ぶには、あまりに静かなものが、そこにあった。
そのときだった。
ガラスに、何かが映った。
俺の背後。廊下の、ずっと奥。
長い黒髪の、女子生徒の後ろ姿。
こちらに背を向けて、ゆっくりと廊下の角を曲がっていくところだった。制服。細い肩。その歩き方には、周囲の生徒のような「自然さ」がなかった。むしろ、この空間に馴染もうとして、馴染みきれていない硬さがあった。
俺は振り返った。
廊下の奥に、もう、誰もいなかった。
角の向こうへ、消えたあとだった。
窓ガラスに映っていた後ろ姿だけが、まぶたの裏に残っている。
三十二番。
名簿の、空白の番号。
俺は、その角へ向かって歩き出した。




