第02話:止まった秒針
黒板の上、白い文字盤の中で、長針と短針だけが十時を示している。秒針は六の数字のあたりで、わずかに傾いたまま動かない。電池切れの時計なら、こんな止まり方はしない。これは、止められた時計の止まり方だった。
俺はそれを確かめるように、しばらく見つめた。
一分。二分。
体感ではそう感じた。だが秒針は、一目盛りも進まなかった。
なのに授業は進んでいる。教師の声は続いているし、生徒の手はノートの上を動いている。窓から差す光の角度も、さっきと変わらない。時間が流れているのか、止まっているのか、どちらの証拠も成立しない。
気持ちが悪い。
俺は視線を手元へ落とした。
まず、自分を確認する。これは訓練だ。状況が分からないときほど、まず手の届く範囲から数えていく。
手。細い。傷がない。爪はきれいに切られている。利き手の中指に、ペンだこらしき硬さがある。俺の手にこんなものはなかったはずだ。
机の右上に、ネームプレートの跡のようなシールが貼られている。そこに書かれた名前を、俺は読んだ。
読めた。
そして、おかしなことに気づいた。
その名前を見た瞬間、俺はそれが「自分の名前だ」と感じた。違和感なく、するりと馴染んだ。出席を取られれば返事をするだろうし、呼ばれれば振り向くだろう。身体がそう覚えている。
だが、軍人としての俺は、その名前を一度も名乗ったことがない。
二つの記憶が、重ならないまま同じ頭の中に入っている。片方は、灰色の廊下と認証ゲートと、腕から流れる血を知っている。もう片方は、この教室の自分の席を知っていて、隣の席の人間と昨日どんな話をしたかまで知っている。
隣の席。
俺はそちらを見た。
眼鏡の男子生徒が、ノートに何か書き込んでいた。視線に気づくと、軽く眉を上げて、小声で言う。
「なに。当てられた仕返しに俺のノート写す気か」
俺は答えに詰まった。
こいつの名前を、俺は知っていた。声を聞いた瞬間に、頭の中の引き出しが勝手に開いて、名前と、性格と、つるんでいる時間の長さまで出てきた。長い付き合いだという感触がある。
そんな付き合いは、なかったはずだ。
俺はこの教室に、今朝はじめて来た。いや、今朝ですらない。さっき、世界が裏返って、ここへ落ちてきただけだ。
「……いや。なんでもない」
声が、若い。何度聞いても自分のものとは思えない。
眼鏡の男子は肩をすくめて、またノートに戻った。その仕草に、不自然なところは何もなかった。むしろ、自然すぎた。
俺は教室を見回した。
三十人ほどの生徒。みんな、当たり前のように授業を受けている。後ろの席で誰かが小さくあくびをした。窓際の女子が、髪を耳にかけた。前のほうで、ノートを回している連中がいる。
日常だ。
完璧な日常。
それが、いちばん引っかかった。
戦場でも、施設でも、人間が三十人いれば、必ず一人や二人は集中を切らしている。退屈そうに机を蹴る奴。窓の外を見て上の空の奴。理由もなくそわそわしている奴。人間というのは、そういう不揃いさで出来ている。
だがこの教室の不揃いは、整いすぎていた。あくびも、私語も、よそ見も、まるで「教室にはこのくらいの私語があるものだ」という見本帳から配置されたように、ちょうどいい量で散らばっている。
誰一人、この空間そのものを疑っていない。
当然だ。彼らにとっては、ここが世界のすべてなのだから。
ふと、教師がこちらを見た気がした。
黒板に向かっていたはずだ。だが、視界の端で、白髪交じりの頭がほんの一瞬、こちらを向いた。目が合ったかどうかは分からない。次に確かめたときには、教師はもう黒板へ向き直っていた。
チョークの音が続く。同じ高さの、同じ間隔の音。
俺は深く息を吸った。マスクはない。肺の底まで、ちゃんと空気が届く。それが逆に、現実感を遠ざける。さっきまで、薄い息で死にかけていたのに。
任務を、思い出す。
仮想空間内に取り残された、高官の娘。救出対象。学園型環境。確保して、帰還まで誘導する。
対象の少女。
俺は、あの写真を思い出そうとした。
モニターに映っていた。十代半ば。制服。こちらを見ていない。
それは思い出せる。だが、名前が出てこない。
ブリーフィングで、名は呼ばれたはずだ。書類にも記されていたはずだ。なのに、その一点だけが、頭の中で白く塗りつぶされている。少女の輪郭は覚えているのに、それを呼ぶための言葉だけが、抜き取られている。
不自然だ。
俺は他人の名前を、苦もなく思い出せる。隣の眼鏡も、その向こうの連中も。会ったこともないはずの生徒たちの名前が、勝手に頭に入っている。
なのに、本当に思い出さなければならない一人の名前だけが、ない。
誰かが、消したのか。
それとも、最初から与えられていないのか。
考えていると、チャイムが鳴った。
きんこんかんこん。
さっき聞いたばかりの音だった。長さも、間延びの仕方も、寸分違わない。まるで録音を、同じ位置から再生したみたいに。
教師が教科書を閉じる。生徒たちが一斉に動き出す。椅子を引く音。話し声。誰かが廊下へ駆けていく足音。
休み時間だ。
俺は時計を見た。
十時。秒針は、まだ六のあたりで止まっている。
授業が一コマ終わったのに、時計の針は、最初に見たときから一度も動いていない。
俺は立ち上がった。
この教室にいても、対象は見つからない。確かめるべきことが多すぎる。校内の構造、出口、人の流れ、そして――名前を消された一人が、どこにいるのか。
席を立つ俺を、誰も気に留めなかった。それも、自然だった。自然すぎた。
廊下へ出る。
長い廊下が、両側にまっすぐ伸びていた。窓が等間隔に並び、その向こうに校庭と青空が見える。生徒たちが行き交う。よくある、学校の風景。
俺は左手を見た。窓の外。
校庭の隅で、一人の生徒がボールを蹴っていた。
蹴ったボールが、宙で止まっていた。
地面に落ちる手前の高さで、ボールはぴたりと静止している。蹴った生徒は、もう次の動きに移ろうとしている。なのに、ボールだけが、空中に置き忘れられたように浮いていた。
俺は瞬きをした。
次の瞬間、ボールは何事もなかったように地面へ落ち、転がっていった。生徒が追いかけていく。
誰も、気づいていない。
俺は、廊下の奥へ向かって歩き出した。




