第01話:何故こうなった
暗い。
意識へ最初に戻ってきたのは、その一語だった。
次に、寒さ。それから、自分の手のひらが濡れていることに気づいた。
ぬるい。粘つく。
血だ、と理解するのに、思ったより時間はかからなかった。
両腕の内側が、裂けている。そこから流れ出たものが、固まりかけながら指先を伝い、床のどこかへ滴っていた。ぽた、ぽた、と。一定の間隔で。
視界は赤く濁っていた。天井で警告灯が緩く回り、割れたモニターの破片が床に散らばっている。焼けたケーブルの匂い。誰もいない観測室。
口元で、ずれた酸素マスクが浅い呼吸のたびに白く曇った。吸っても、薄い。肺の底まで届かない。
ぴ、ぴ、ぴ、と電子音が鳴っている。心電図だ。その間隔が、少しずつ伸びていた。
俺は天井を見上げたまま、動かなかった。
動けない、というより、動く意味を計算してやめた。手首から先に力は入らない。背骨に沿って細い針が何本も差し込まれたままで、抜けば確実に何かが終わる。
不思議なほど、慌てていなかった。
死にかけるのは、初めてではない。身体が冷えていく感覚にも、視界が狭まっていく感覚にも、覚えがあった。だから頭のどこかが、いつもの手順で状況を測ろうとしていた。
ただ、その手順が、答えを返してこない。
ここはどこだ。なぜ俺の腕は裂けている。なぜ施設は壊れている。なぜ俺は、まだ生きている。
問いだけが、やけにくっきりと形を持っていた。
何故こうなった。
マスクの内側で、乾いた喉から掠れた音が漏れた。声と呼べるほどの強さもない。
「被験者十七号、脳波低下」
女の声がした。若い。だが平坦で、感情がない。スピーカー越しのように遠かった。
「血圧、まだ落ちます。接続を維持できません」
「切るな」
別の声。男。年配。命令に慣れた声だ。
接続。
その言葉に、頭の奥が鈍く軋んだ。
――ああ。
そうだ。俺は、何かに繋がれている。
灰色の廊下を歩いていた。
白い手袋に書類を渡され、認証ゲートをいくつもくぐった。軍服。消毒の匂い。窓のない部屋。
正面の大きなモニターに、一枚の写真が映っていた。
少女だった。十代半ば。制服姿。こちらを見ていない。怯えているようにも、何も映していないようにも見えた。
その横に並んだ文字を、俺はまだ覚えている。
救出対象。
対象。人間につけるには、ずいぶん便利な言葉だと思った。
「仮想空間内に取り残された、重要人物の縁者を回収する」
将校の声は乾いていた。
「内部は学園型環境。対象は自我境界に異常をきたしている。外部からの強制切断は、生命維持上きわめて危険だ」
生命維持。今の自分の状態に、その言葉が重なる。
「作戦時間は一〇〇〇。突入後、対象を確保し、帰還まで誘導しろ」
一〇〇〇が秒なのか分なのか、俺は尋ねなかった。あれは内部でしか測れない時間で、外の時計に換算しても、同じ長さには戻らないらしい。
誰かが尋ねた。なぜ軍人を使うのか、と。
将校は短く答えた。
「一般のオペレーターでは、戻ってこられなかったからだ」
部屋が静まった。
高度に鍛錬された者でなければ耐えられない、と将校は続けた。肉体的負荷。認識の汚染。記憶の改変。自己同一性の揺らぎ。そのすべてに耐え、任務を終えられる者だけが、あの中へ入れる。
危険な救出。特殊な仮想環境。高官の娘。軍の極秘案件。
珍しくはある。だが、俺たちに回ってくる任務は、いつだって普通の範囲を少しだけ外れている。
だから署名した。拒否権があったのかは、知らない。
「意識同期、臨界に入ります」
「作戦開始まで」
「十秒」
現実の音が戻ってきた。
誰かが俺のまぶたを指で開く。光。反応できない。
ガラスの向こうに、白衣と軍服と黒いスーツが並んでいた。その中の一人だけが、こちらを凝視している。顔は見えない。
だが、笑っている気がした。
俺は喉の奥で唸った。腕を動かしたかった。あの胸倉を掴みたかった。
身体は動かない。動くのは、思考だけ。
いや。その思考すら、もう半分はどこかへ流れ出していた。
「五」
赤い光が、線に伸びる。
「四」
線が、廊下になる。
「三」
廊下の先に、窓が見える。
「二」
窓の外に、青空と校庭。
「一」
遠くで、誰かの笑い声。
「作戦時間、一〇〇〇」
世界が、裏返った。
*
きんこんかんこん。
間延びしたチャイムの音で、俺は顔を上げた。
机に突っ伏していたらしい。頬に木の感触。鼻先に、鉛筆の匂い。どこかで椅子を引く音。
教室だった。
横長の窓。白いカーテン。整列した机。黒板には、古文らしき文字が並んでいる。三十人ほどの生徒が、こちらを見ていた。
全員、制服。
俺も、制服を着ていた。
手首に、傷はない。さっきまで血を流していたはずの腕は、細く、白く、何の経験もない高校生の手になっている。口元に、マスクはない。肺の底まで、息が届く。
「おい、聞いているのか」
教壇の教師が、こちらを睨んでいた。白髪交じりの男。見覚えはない。なのに、見覚えがある気もする。その矛盾が、ひどく気持ち悪い。
俺は教科書を見下ろした。開かれたページの文字が、なぜか自然に読めてしまう。
喉が乾いた。
「……四十二ページです」
若い声が出た。俺の声では、なかった。
「寝ぼけるな。四十三だ」
教師はため息をつき、黒板へ向き直った。どこかで小さな笑いが起きて、すぐに消えた。
俺は息を整え、まず確認した。
任務。仮想空間。学園型環境。救出対象。作戦時間一〇〇〇。
ここは、内部だ。
ならば、混乱している暇はない。対象を探し、接触し、回収する。それだけだ。
そう考えたとき、黒板の上の時計が目に入った。
針は、十時を指していた。
秒針だけが、動いていなかった。




