第11話:一秒の川
差し出された手を、取った。
袖ではなかった。服越しでもなかった。手のひらと手のひら。細くて、冷たくて、確かな手だった。
「手順」
「離れない。隠さない。名前は読まない。まだ見ないものは、まだ見ない。置いていかない」
五つを、一息で、二人の声で言い切った。それが最後の点呼だった。
白い光の帯へ、俺たちは同時に踏み込んだ。
床が、なかった。
落ちもしなかった。上下がなく、幅がなく、距離がない。あるのは流れだけだった。音のない轟音が、耳ではなく全身に当たる。廊下の縁で触れた時の比ではない。俺たちはもう、縁にいない。中にいる。
「一歩」
声に出した。出した瞬間、足の裏に、硬さが生まれた。床ではない。言った、という事実の上に立っている。そうとしか言えない一秒だった。
「一歩」
彼女が繰り返す。二重に置かれた一秒の上で、俺たちは一歩進んだ。進んだ端から、後ろで足場の崩れる気配がした。振り返らない。崩れるのは知っている。崩れる前に、次を言う。
「二人で見てる」
「二人で見てる」
「次の一歩」
「次の一歩」
言葉が足場だった。観測が足場だった。手順が、名前の残りが、二人分の声が、一秒ずつ、流れの上に硬さを作っては、削られて消えた。数えるのは、途中でやめた。数は流される。言い続けることだけが、進むことだった。
上流から、断片が来た。
教室の朝。頬に当たる光。削れた鉛筆の匂い。かと思えば、暗い実験室。血の味。警告灯の赤。任務を復唱する俺の声。対象を確保する、と言う俺の声。対象。あの言葉を、俺は確かにこの声で言った。断片は避けられない。流れの中で、それは水と同じだ。当たって、染みて、流れていく。
——次は、彼女を見捨てろ。
来た。
あの声だった。俺の声。上流に残った、削れた俺の声。前は膝が笑った。今は、笑わなかった。
従わない。だが、責めもしなかった。あれは敵ではない。ここまで来て、ここで削られて、忠告の形しか残らなかった俺たちだ。何度も来て、何度も流された。その声が上流にあるということは、その声の主も、一度はここに立ったということだ。
「置いていかない」
俺は、上流へ向けて言った。返事は、なかった。流れは、ただ流れた。それでよかった。
どれだけ進んだのか、分からなくなった頃、俺の中身が薄くなり始めた。
指先からではなかった。今度は、内側からだった。言おうとした言葉が、口の手前で白くなる。次の一歩、と言うつもりで、次の、までしか出ない。自分の名を、胸の内で確かめようとして——
白い長方形が、あった。
靴箱のシールと、同じ白。読めたはずの三文字が、あったはずの場所ごと、白く塗り込められていた。俺は、俺の、——誰だ。手を繋いでいる。誰と。この手は、誰の。
「亘」
声が、来た。
流れの音を割って、まっすぐに、俺の白い場所へ落ちた。
「亘。こっち」
二度。
崩れる昇降口で聞いたのと、同じ二度だった。白い長方形の上に、三文字が、彼女の声の形で戻ってくる。亘。俺の名前だ。俺のものであるより先に、彼女が呼ぶものとして、俺の中に戻ってきた。足場が、固まる。俺は、彼女の手を握り直した。
「……戻った」
「うん。見てた。ずっと」
進んだ。言って、置いて、崩れて、また言った。
喉が、削れていた。声が掠れる。彼女の声も、低くなっていた。それでも交互に、言い続けた。空席の断片が流れてきた。収まった椅子。答案の線。給湯室の、白く濁った匂い。俺たちの置いてきた痕が、流れの中で、一瞬ずつ光っては過ぎた。痕は、ここにも流れ着いていた。俺たちのやってきたことは、消えていなかった。流されて、それでも、あった。
その頃から、妙なことが起き始めた。
かち、と足場の固まる感触が——来る前に、見えた。
次の一秒の置き場所が、言葉にするより半拍早く、分かる。流れの去り方が、来方が、読める。理屈は分からない。分かろうとする余裕もない。俺はただ、見えた場所へ言葉を置いた。置くたびに、こめかみの奥が細く削れた。彼女の言葉を、思い出した。見すぎないで。あなたが、削れる。俺は見る量を、次の一秒だけに絞った。それ以上は、見ない。まだ見ないものは、まだ見ない。手順は、ここでも手順だった。
下流の方角が、白み始めていた。
朝の白ではない。まだ、ただの白だ。だが、方角だけは、間違いなくそちらにあった。近い。あと何秒かは、数えない。数は流される。
その時、繋いだ手が、軽くなった。
彼女の指の、握る力が抜けていく。見ると、彼女の輪郭が、風に梳かれる砂のように、流れの向きへ細く尾を引いていた。胸の名札の白が、名札の縁を越えて、肩へ、髪へ、滲み出している。
「一歩」
俺は言った。
「……いっ、……」
繰り返しが、途中で白くなった。
彼女の声が、彼女の名の置いてある場所ごと、削られかけていた。自分で置いた名前。誰にも渡さずに、自分の声で据えた名前。その置き場所が、流れに浚われかけている。
五つの手順に、それを留める言葉はない。読まない、と約束した名前だ。俺は読んだことがない。札は糸一本で、署名欄は空白で、俺はただ、一度だけ、彼女自身の声で聞いた。
読むのではない。
呼ぶのだ。
「澪羽」
流れの音が、一拍、遅れた。
光でも、橋でもなかった。ただ、俺の声の形に、一秒が固まった。今までのどの一秒より、硬かった。梳かれかけていた輪郭が、その一秒の上で、彼女の形に戻る。指に、力が戻る。細くて、冷たくて、確かな手が、俺の手を、握り返した。
「……うん」
それだけだった。それだけで、閉じた。彼女が呼び、俺が呼んだ。対象でも、記録でも、一名分でもなく、名前と名前で、俺たちは互いを掴んでいた。
最後の一秒の上で、下流が、見えた。
暗い部屋だった。
緑のランプが、灯っている。小さく、規則正しく。その向こうに窓があり、窓の外の空は、まだ暗かった。夜明けの手前の、いちばん深い暗さ。
あそこだ。
足場が、崩れ始める。次はもう、作らない。作る代わりに、俺たちは繋いだ手に力を込めて、その暗さへ向かって、最後の一歩を踏み出した。
視界が、落ちる。
暗い。




