第10話:帰還定刻
朝、空の線は、消えていなかった。
教室の窓から、二人で見上げた。動かない青空に、細い一本。昨日は一瞬だけ覗いた白が、今日は、線の芯にずっと灯っている。蛍光灯の白。強くはならない。広がりもしない。ただ、朝を越えて、そこにある。
「足場、まだ残ってる」
彼女が言った。俺は頷いた。空に置いた三分は、押し戻されずに、朝を越えた。
ノイズが始まったのは、一時間目のチャイムからだった。
四音のうち、二音目が濁った。濁りの底に、澄んだ無音。あの部屋の静けさが、チャイムの隙間から染み出してくる。以前は夕方だけだった。今日は、鳴るたびに混ざる。窓の光が瞬くたび、遠くで電子音の粒が鳴る。空の線が、向こうとこちらの壁を、薄くしている。
昼前、スピーカーが、はっきりと割れた。
「対象二名、バイタル低下。……聞こえるなら、応答して」
管制官の声だった。報告の型と、型に収まらない呼びかけが、一つの息の中に混ざっていた。
応えようとした俺の声に、別の声が被さった。低い、命令に慣れた声。
「強制切断だ。これ以上は持たない」
「未完了の切断は推奨しません。記録破損の可能性があります。照合完了後に、回収します」
乾いた、温度のない声が、それに答えた。
スピーカーの奥で、二つの手順が争っていた。外から切るか。完了を待って、回収するか。どちらの声にも、悪意はなかった。指揮側は、外に横たわる二つの身体が限界に近いから切ろうとしている。主任は、切れば壊れるから、揃い終わるのを待とうとしている。処理としては、たぶん、どちらも正しい。
ただ、どちらの手順にも、俺たちがいなかった。
切られて還るか。揃えられて還るか。届けられる小包の扱いが二通りあるだけで、還る側の手順が、どこにも書かれていない。
「……ねえ」
彼女が、スピーカーを見上げたまま言った。
「揃えられて還ったら、それ、還ったことになるのかな。わたしの名前、やっと自分で置いたのに。揃えられたら、また、置き直される」
「ならない」
俺は言った。腹は、もう決まっていた。
「切られもしない。揃えられもしない。……出るぞ。俺たちの手順で」
「どこから」
「昇降口だ」
考えて出した答えではなかった。口が先に出した答えを、頭が後から確かめた。最初に弾かれた場所。何度も戻された場所。切れ目が開いた場所。彼女が、崩れる光の中で俺の名を呼んだ場所。この校舎で、内と外の境目は、最初からあそこにしかない。
スピーカーへ向けて、俺は言った。届くのは、二文字か三文字でいい。
「還る。俺たちの手順で。——帰還定刻は、こちらで決める」
澄んだ無音の向こうで、息を呑む気配が、一つ。それから、乾いた声が、短く言った。
「帰還定刻まで、維持」
どちらの意味なのかは、分からなかった。俺たちの宣言への返答なのか、ただの処理の継続なのか。確かめる時間を、俺たちは使わないことにした。
※
廊下は、揃いにかかっていた。
教室を出た瞬間から、分かった。掲示物の紙の角が、全部、同じ角度で反っている。窓の外の校庭が、どの窓から見ても、同じ一枚だった。角度が、変わらない。歩いても、視差が出ない。景色ではなく、貼られた絵の前を歩いているようだった。
「離れない」
「隠さない」
声に出しながら、進んだ。廊下ですれ違う生徒たちの顔が、全員、あの誰でもない顔になっていた。胸の名札は、白。壁の名簿も、白。名前という名前が流され切った校舎を、白い札だけが、等間隔に歩いている。
階段が、長かった。
降りても、降りても、次の階が来ない。段数を、俺は数えなかった。数えれば、数のほうが合わせてくる。代わりに、手順を数えた。
「名前は読まない」
「まだ見ないものは、まだ見ない」
一段ごとに、一本ずつ。杭を打つように降りていくと、階段は、ただの階段に戻った。踊り場の窓の外に、初めて視差が生まれ、景色が半歩、流れた。
「置いていかない」
五つ目を言い切った先に、昇降口があった。
靴箱の列。俺の名前のシールは、白くなっていた。読めたはずの自分の名前が、白い長方形になって、箱の縁に貼りついている。指先が、勝手にそれに触れた。剥がしはしなかった。読めなくても、どの箱かは、足が覚えている。名前より深いところに置いてあるものも、まだ、ある。
昇降口の横。あの切れ目は、変わっていた。
幅は、同じ。人ひとり分のまま。だが、上端が伸びていた。天井を越え、壁を裂いて、細い線のまま上へ——見えない先で、空のあの線と、繋がっている。確かめようはない。だが、分かった。答案の縦線と、空の亀裂と、この切れ目は、太さの違う同じ一本だった。
切れ目から、白い光が、床に差していた。
蛍光灯の白ではなかった。もっと素の、何も混ざっていない白。光の帯が、靴箱の前の床に、境界線みたいに一本、引かれている。
俺は、その光の手前に立ち、手のひらを、光の縁へかざした。
音のない轟音が、指先に触れた。
流れている。この白の向こうは、廊下でも、校庭でもない。あの、幅の分からないものが流れている場所へ、まっすぐに続いている。かざした指の先から、濃さが薄まっていく。あの縁で覚えた削られ方が、もう始まっている。俺は手を引いた。指先の感覚が戻るまで、三呼吸かかった。
「……三分は、無理だ」
指を握り直しながら、言った。
「教室でなら、三分の足場が組めた。あの中では、保たない。足場を組んだ端から、削られて、崩される。組んで、渡って、崩れる前に次を組む。……その一歩ぶんが、たぶん」
「一秒」
彼女が、言った。
俺は頷いた。渡り切るまで、何秒あるのかは分からない。分かっているのは、一気には行けないこと。三分をひとまとめには持ち込めないこと。あの流れの中で俺たちに作れるのは、崩れる前提の、一秒の足場だけだということ。
途方もない計算のはずだった。
だが、彼女は、光の帯を見つめたまま、怯えていなかった。白い名札の胸の内に、自分で置いた名前がある。俺の隣には、二人で数えてきた足場の作り方がある。一秒。俺たちはもう、一秒が積めることを知っている。答案の線一本から、空の亀裂まで、全部、その積み方で来た。
彼女が、手を差し出した。
「一秒ずつ、なら」




