第09話:三分の足場
翌朝、彼女の名札は白いままだった。
白いまま、彼女はそこにいた。俺の目は、もう滑らない。半拍の空白もなく、視線はまっすぐ彼女に届く。名乗った日の消耗は、まだ声の底に残っていた。少し掠れて、少し低い。それでも、朝の挨拶の代わりに彼女が言ったのは、一言だった。
「今日、やろう」
俺は頷いた。同じことを、言うつもりだった。
※
放課後の教室に、俺たちは残った。
窓際の列の、いちばん奥。椅子は引き出されたまま、少し斜め。机の中の答案を、そっと確かめる。解きかけの数式。余白の3。その隣の、短い縦線。全部、ある。
「点呼を取る」
俺は言った。作戦前の装備確認と、同じ要領で。ただし、確かめるのは弾でも無線でもない。
「足場の脚だ。一つ。二人の観測。二人で見る。どっちか一人の記憶にしない」
「二人で見る」
「二つ。声の記録方式。置くものは全部、声に出す。相手が繰り返す。黙って置いたものは、残らない」
「声に出して、置く」
「三つ。手順。——離れない。隠さない。名前は読まない。まだ見ないものは、まだ見ない。置いていかない」
五つを、二人で最後まで言い切った。彼女の声は、五つ目でいちばん確かだった。
「四つ目は」
俺は、そこで少しだけ言葉を選んだ。
「俺が言わなくていいやつだ」
「うん」
彼女は、自分の胸の、白い名札の上に指先を置いた。
「わたしが、持ってる。自分で置いたやつ」
それで、四本目は立った。呼べる名前が、ある。まだ呼ばれていない名前が、彼女の内側に、彼女の声で据えられている。糸一本の札より、よほど確かな場所に。
「置くものを言う」
俺は空席へ向き直った。
「これから、三分待つ。三人分として。空席の机の上は、誰のものでもない場所として、空けておく。俺たちは待つ。急かさない。覗かない。三分たったら、終える」
「三分待つ。三人分として。誰のものでもない場所。急かさない。覗かない。三分で、終える」
彼女の復唱が、教室の空気に、最後の杭を打った。
俺たちは、空席を挟む通路の机に着いた。黒板の上の時計。十時のまま止まった文字盤。傾いた秒針。
「始める」
かち。
秒針が、動いた。
かち。かち。正しい速さ。正しい音。夕陽の色が、一段、深くなる。埃が光の帯の中で回り出す。そして、匂い。白く濁った、魚介ともミルクともつかない、あの湯気の匂いが、誰のものでもない机の上に、薄く立った。
俺は秒針だけを見ていた。
二十秒。三十秒。前に押し戻しが来た地点が、近づいてくる。文字盤の半分。産毛が立つ。膝の下に力を入れる。圧に備える——
かち。
針は、半分を越えた。
何も、来なかった。夕陽は深いまま。匂いは立ったまま。埃は回ったまま。教室は、三人分の濃さのまま、次の一目盛りへ進んだ。
隣で、彼女がゆっくりと息を吐くのが聞こえた。
一周目が、終わる。
その頃には、音がしていた。
細い音。紙の上を、鉛筆の先が走る音。空席の方角から、途切れず、慌てず、一定の速さで。俺たちは見なかった。見る必要がなかった。三人で待っている。それが分かるのに、目は要らない。前と同じだ。違うのは、音が続いていることだった。走って、止まり、また走る。考えて、書いて、また考える。誰かの途中が、続きをやっている音だった。
二周目。
夕陽が、机の列を横に渡っていく。鉛筆の音は、時々ゆっくりになった。難しいところなのかもしれない。俺たちは急かさなかった。声に出して置いたとおりに。三分は、まだある。
二周目の終わり近く、音の質が変わった。
走る音が短くなり、間が詰まって、最後に——とん、と。紙を弾く、小さな点の音がした。
書き終わりの、音だった。
鉛筆の音は、それきり、しなかった。
三周目の半ば、椅子が、動いた。
床を擦る音は、しなかった。引き出されて斜めを向いていた椅子が、ゆっくりと角度を直し、静かに、机の中へ収まった。誰かが座り直したようでもあり、席を立ち終えて、椅子を戻したようでもあった。どちらなのかは、分からない。どちらでも、同じことなのかもしれなかった。途中だったものが、途中ではなくなる。その動きだけが、そこにあった。
かち。
秒針が、三周目を回りきった。
「三分」
俺が言い、彼女が「三分」と重ねた。終える。置いたとおりに。
彼女は椅子の収まった空席へ向けて、少しだけ、頭を下げた。俺も倣った。それ以上のことは、しなかった。数に入れて、待って、見送る。俺たちにできるのは、そこまでだ。
押し戻しは、一拍おいて、来た。
今までで、いちばん重かった。水位ではなく、水塊だった。教室の全部が一度に撫でられて、夕陽の色が二段戻り、埃の回転が逆を向き、湯気の匂いが根こそぎ引いていく。秒針が迷い、止まる。頭の中の三分が、端から薄められていく——
「離れない」「隠さない」「名前は読まない」「まだ見ないものは、まだ見ない」「置いていかない」
二人の声で、五本の杭を、打ち直した。
圧が、抜けた。
教室は、夕方の教室に戻っていた。秒針は十時の文字盤で傾いて止まり、匂いはなく、音もない。俺は膝をつき、机の中の答案を引き出した。
解きかけの数式。途中で切れた解答。余白の3と、縦線。
紙は、戻されていた。
「……途中に、戻されたの?」
彼女が覗き込む。俺は、紙をしばらく見てから、首を振った。断定できることは少ない。ただ、一つだけ、教室の側に、戻らなかったものがある。
椅子だ。
空席の椅子は、机に収まったまま、動いていなかった。あれだけの押し戻しが、夕陽の角度まで巻き戻していったのに、椅子だけは、収まった角度のまま残っている。
「これは、途中じゃない」
彼女が、静かに言った。
「終わったあとの、置きっぱなし。……紙は戻されても、終わったことは、戻されてない」
俺は答案を、そっと机の中へ返した。
立ち上がった時、彼女が窓の外を見て、動きを止めた。
俺も見た。
動かない青空に、線が一本、入っていた。
細い。チョークを寝かせて引いたような、白い線。だが、チョークではなかった。線の芯のところだけ、空の青が裂けて、向こうから別の白が覗いていた。太陽の色ではない。蛍光灯の、あの白。俺たちが外に置いてきた部屋の、白だった。
一瞬、線の奥が明るくなって——すぐに、細い線に戻った。
「出口じゃ、ないね」
「ああ。まだ、線一本だ」
答案の余白の縦線と、同じ細さの線が、今度は空に引かれていた。押し戻されても、残るものがある。俺たちはそれを、机の上で覚えた。いま、空が同じことを覚え始めていた。
足場は、三分だった。
その三分が、空に、残っていた。




