第08話:彼女の名前
朝の教室で、俺の目が、彼女の上で滑った。
一瞬だった。隣の席へ視線を向けて、焦点が合うまでに、半拍の空白があった。後ろの列の、あの三人を見る時と同じ滑り方。すぐに合った。彼女は彼女の輪郭で、そこに座っていた。だが、俺の背中は冷え切っていた。
彼女の胸の名札は、ほとんど白かった。
文字の気配が、まだ、ある。あるとしか言えない濃さで。墨の最後の一滴が水に溶け切る、その手前。
彼女も、俺の目の滑りに気づいていた。俺は隠さなかった。手順どおりに、見たままを言った。目が滑った。半拍。すぐ戻った。彼女は聞き終えて、自分の胸の名札を見下ろして——顔を上げた。
「名札の教室に、行く」
怯えは、声の底にあった。あったが、声はその上に立っていた。
「今日、見る。……ううん、違う」
彼女は言い直した。
「言う」
※
四階へ上がる階段で、彼女は一度だけ、あの日の話をした。
「同意書、覚えてる?わたし、署名欄に、何も書けなかった」
「覚えてる」
「あの時ね、書けなかったんじゃないの。……書きたくなかった。紙に書いたら、名前が、わたしの外に置かれる。外に置いたものは、また誰かに使われる。呼ばれて、押し込められて。だから、まだ、って思った。まだ書かない、って」
空欄のまま受理された、あの白い枠。名簿の三十二番と同じ形の空白。彼女はそれを、日付では測れないこの学園の中で、ずっと抱えてきた。
「でも、いま流されてるのは、外に置いた名前だけじゃない。……置かなかった分まで、持っていかれてる。まだ、って言ってるうちに、まだの先が、なくなる」
増えた扉は、今日もそこにあった。
教室に入って、俺は息を止めた。
白い札の列は、ほとんど全滅していた。読める札を探すほうが難しい、どころではない。三十いくつの札の上で、名前という名前が、輪郭を失って、ただの灰色の淀みになっていた。等間隔に並んだ、誰でもなくなりかけの札。檻の格子が、溶け落ちる寸前だった。
黒板の図は、あった。太い線も。その下の粉受けに、チョークの粉が、白く積もっていた。
彼女は、まっすぐに歩いた。
いちばん奥の、窓際の机。
あの札は——糸一本だった。画数の多い字と、柔らかい字が並んでいた気配は、もう気配の記憶でしかない。ほどけ切るまで、あと一滲み。それだけしか残っていなかった。
彼女は札の前に立った。俺は半歩後ろで止まった。ここから先は、彼女の領分だ。
「まだ見ないで、って言った」
彼女は、札を見下ろしたまま言った。
「もう、まだ、じゃない。……でも、読まない。これを読んで取り戻すんじゃない。読んだら、札に書いてあったからわたし、になる。逆にする」
息を、吸う音がした。
細く、長く、震えを外へ逃がすような息。それから、彼女は顔を上げた。札ではなく、教室の——誰もいない三十いくつの机の並びに向かって。数えられなかった側の全部に、届かせるみたいに。
「篠宮」
最初の一語は、少しだけ硬かった。父の姓。高官の娘の、檻の側の音。彼女はそれを、飲み込まずに言い切った。
「澪羽」
二語目は、柔らかかった。
「篠宮、澪羽。……わたしの名前。一名分に、される前に。わたしが、わたしを、一名に数える」
復唱が、喉元まで来た。
俺は、飲み込んだ。手順だ。名前は読まない。呼ぶのは、俺の仕事ではない。まだ。俺はただ、頷いた。聞いた、受け取った、それだけを、首の動きに込めて。
彼女が頷き返した——その時だった。
音が、遅れた。
下の階から届いていた、生徒たちのざわめき。あの正確な笑い声。それが、一拍、途切れた。途切れて、半拍ずれて、再開した。合唱の指揮が一度だけ空を切ったような、ずれ方だった。
教室の中は、もっと静かだった。静かというより、止まっていた。窓の光の中の埃が、回るのをやめていた。俺の呼吸の音だけが、妙に大きい。
その止まった部屋の中で、二つだけ、動いているものがあった。
黒板の粉受けから、チョークの粉が、ひとすじ、こぼれ続けていた。誰も触れていないのに、白い粉だけが、細く、床へ落ち続けている。
そして、札の上の滲みが——止まっていた。
戻ってはいない。糸一本は、糸一本のまま。読める字には、ならない。光りもしない。ただ、ほどけていく動きが、そこで止まった。溶け切る寸前の一滴が、水面の手前で、留まっていた。
処理が、噛み合っていない。
そう感じた。歯車の間に、想定にない一枚が差し込まれて、送りが一拍だけ空転している。彼女が言った名前は、札の外から来た。読み上げでも、呼びかけでもなく、自分でここに置いた名前だった。流れの帳尻に、なかったはずの一名が、自分の声で書き込まれた。
一拍が、終わった。
埃が回り出す。下の階のざわめきが、元の正確さで戻る。粉受けの粉は、いつのまにか、こぼれるのをやめていた。
彼女は、立っていた。
札は、糸一本のまま。彼女の胸の名札も、白いまま。何も戻らず、何も光らず、彼女は昨日までと同じ輪郭で、そこにいた。ただ、俺の目は、もう滑らなかった。それだけだった。それだけが、途方もなく大きかった。
「……言った」
彼女が、息を吐いた。膝が少し揺れて、机の縁に手をついた。俺は、支える代わりに、隣に並んだ。
その時、遠くで、音が鳴った。
警報だった。この校舎のどの鐘とも違う、平坦な、機械の警報。スピーカー越しのノイズに乗って、澄んだ無音の底から、それは断続的に漏れてきた。向こう側の部屋で、何かが、鳴っている。
俺たちは階段を駆け下りた。一階。印刷室。
コピー機が、動いていた。
排紙トレイに、一枚。送り穴の並んだ、あの帳票。引き抜くと、温かかった。
ドットの文字は、二行だけだった。
——アカシャ照合:第二段階、継続
——第二例、特定
二例目、照合可。あの日、車椅子の視界の端で読んだ一行が、四年分も昔のことみたいに、遠くで重なった。空欄のまま受理された署名の持ち主は、いま、特定された。
彼女は、帳票を覗き込んで、長いこと黙っていた。
「……見つかっちゃった、ね」
声は、思ったより静かだった。
「でも、流されてない。見つかるのと、流されるのは、違う」
俺は頷いた。頷きながら、背中の冷えは、消えていなかった。
名前は、彼女を留めた。ほどけ切る寸前の一名を、この世界の帳尻に、書き戻した。
そして同じ名前が、いま、照合の座標になった。




