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第08話:彼女の名前

朝の教室で、俺の目が、彼女の上で滑った。


一瞬だった。隣の席へ視線を向けて、焦点が合うまでに、半拍の空白があった。後ろの列の、あの三人を見る時と同じ滑り方。すぐに合った。彼女は彼女の輪郭で、そこに座っていた。だが、俺の背中は冷え切っていた。


彼女の胸の名札は、ほとんど白かった。


文字の気配が、まだ、ある。あるとしか言えない濃さで。墨の最後の一滴が水に溶け切る、その手前。


彼女も、俺の目の滑りに気づいていた。俺は隠さなかった。手順どおりに、見たままを言った。目が滑った。半拍。すぐ戻った。彼女は聞き終えて、自分の胸の名札を見下ろして——顔を上げた。


「名札の教室に、行く」


怯えは、声の底にあった。あったが、声はその上に立っていた。


「今日、見る。……ううん、違う」


彼女は言い直した。


「言う」



四階へ上がる階段で、彼女は一度だけ、あの日の話をした。


「同意書、覚えてる?わたし、署名欄に、何も書けなかった」


「覚えてる」


「あの時ね、書けなかったんじゃないの。……書きたくなかった。紙に書いたら、名前が、わたしの外に置かれる。外に置いたものは、また誰かに使われる。呼ばれて、押し込められて。だから、まだ、って思った。まだ書かない、って」


空欄のまま受理された、あの白い枠。名簿の三十二番と同じ形の空白。彼女はそれを、日付では測れないこの学園の中で、ずっと抱えてきた。


「でも、いま流されてるのは、外に置いた名前だけじゃない。……置かなかった分まで、持っていかれてる。まだ、って言ってるうちに、まだの先が、なくなる」


増えた扉は、今日もそこにあった。


教室に入って、俺は息を止めた。


白い札の列は、ほとんど全滅していた。読める札を探すほうが難しい、どころではない。三十いくつの札の上で、名前という名前が、輪郭を失って、ただの灰色の淀みになっていた。等間隔に並んだ、誰でもなくなりかけの札。檻の格子が、溶け落ちる寸前だった。


黒板の図は、あった。太い線も。その下の粉受けに、チョークの粉が、白く積もっていた。


彼女は、まっすぐに歩いた。


いちばん奥の、窓際の机。


あの札は——糸一本だった。画数の多い字と、柔らかい字が並んでいた気配は、もう気配の記憶でしかない。ほどけ切るまで、あと一滲み。それだけしか残っていなかった。


彼女は札の前に立った。俺は半歩後ろで止まった。ここから先は、彼女の領分だ。


「まだ見ないで、って言った」


彼女は、札を見下ろしたまま言った。


「もう、まだ、じゃない。……でも、読まない。これを読んで取り戻すんじゃない。読んだら、札に書いてあったからわたし、になる。逆にする」


息を、吸う音がした。


細く、長く、震えを外へ逃がすような息。それから、彼女は顔を上げた。札ではなく、教室の——誰もいない三十いくつの机の並びに向かって。数えられなかった側の全部に、届かせるみたいに。


「篠宮」


最初の一語は、少しだけ硬かった。父の姓。高官の娘の、檻の側の音。彼女はそれを、飲み込まずに言い切った。


「澪羽」


二語目は、柔らかかった。


「篠宮、澪羽。……わたしの名前。一名分に、される前に。わたしが、わたしを、一名に数える」


復唱が、喉元まで来た。


俺は、飲み込んだ。手順だ。名前は読まない。呼ぶのは、俺の仕事ではない。まだ。俺はただ、頷いた。聞いた、受け取った、それだけを、首の動きに込めて。


彼女が頷き返した——その時だった。


音が、遅れた。


下の階から届いていた、生徒たちのざわめき。あの正確な笑い声。それが、一拍、途切れた。途切れて、半拍ずれて、再開した。合唱の指揮が一度だけ空を切ったような、ずれ方だった。


教室の中は、もっと静かだった。静かというより、止まっていた。窓の光の中の埃が、回るのをやめていた。俺の呼吸の音だけが、妙に大きい。


その止まった部屋の中で、二つだけ、動いているものがあった。


黒板の粉受けから、チョークの粉が、ひとすじ、こぼれ続けていた。誰も触れていないのに、白い粉だけが、細く、床へ落ち続けている。


そして、札の上の滲みが——止まっていた。


戻ってはいない。糸一本は、糸一本のまま。読める字には、ならない。光りもしない。ただ、ほどけていく動きが、そこで止まった。溶け切る寸前の一滴が、水面の手前で、留まっていた。


処理が、噛み合っていない。


そう感じた。歯車の間に、想定にない一枚が差し込まれて、送りが一拍だけ空転している。彼女が言った名前は、札の外から来た。読み上げでも、呼びかけでもなく、自分でここに置いた名前だった。流れの帳尻に、なかったはずの一名が、自分の声で書き込まれた。


一拍が、終わった。


埃が回り出す。下の階のざわめきが、元の正確さで戻る。粉受けの粉は、いつのまにか、こぼれるのをやめていた。


彼女は、立っていた。


札は、糸一本のまま。彼女の胸の名札も、白いまま。何も戻らず、何も光らず、彼女は昨日までと同じ輪郭で、そこにいた。ただ、俺の目は、もう滑らなかった。それだけだった。それだけが、途方もなく大きかった。


「……言った」


彼女が、息を吐いた。膝が少し揺れて、机の縁に手をついた。俺は、支える代わりに、隣に並んだ。


その時、遠くで、音が鳴った。


警報だった。この校舎のどの鐘とも違う、平坦な、機械の警報。スピーカー越しのノイズに乗って、澄んだ無音の底から、それは断続的に漏れてきた。向こう側の部屋で、何かが、鳴っている。


俺たちは階段を駆け下りた。一階。印刷室。


コピー機が、動いていた。


排紙トレイに、一枚。送り穴の並んだ、あの帳票。引き抜くと、温かかった。


ドットの文字は、二行だけだった。


——アカシャ照合:第二段階、継続


——第二例、特定


二例目、照合可。あの日、車椅子の視界の端で読んだ一行が、四年分も昔のことみたいに、遠くで重なった。空欄のまま受理された署名の持ち主は、いま、特定された。


彼女は、帳票を覗き込んで、長いこと黙っていた。


「……見つかっちゃった、ね」


声は、思ったより静かだった。


「でも、流されてない。見つかるのと、流されるのは、違う」


俺は頷いた。頷きながら、背中の冷えは、消えていなかった。


名前は、彼女を留めた。ほどけ切る寸前の一名を、この世界の帳尻に、書き戻した。


そして同じ名前が、いま、照合の座標になった。

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