第07話:戻される世界
翌朝、教室でいちばんに確かめたのは、答案の余白だった。
膝をつき、二つ折りの紙を、そっと引き出す。3。その隣に、短い縦線。
あった。
角度を変えても、夕陽ではなく朝の光の下でも、線は線のまま、そこにあった。学園の夜を——何度目かも分からない反復の区切りを越えて、鉛筆の細い一本が、消されずに残っていた。
あれだけの押し戻しだった。匂いも、音も、秒針も、椅子の角度も、全部持っていかれた。なのに、これは残った。戻されたのに、残った。
「全部じゃ、ないんだ」
彼女が、紙を覗き込んで言った。
「戻すのは、全部じゃない。……戻せないものが、あるのか。戻さないものが、あるのか」
「どっちなのかを、確かめよう」
俺は答案を机の中へ戻した。確かめ方なら、一つしか知らない。小さく置いて、戻り方を見る。
※
放課後の教室で、俺たちは検証を始めた。
「手順を言う。小さな変化を三つ置く。二つは、声に出して二人で覚える。一つは——黙って置く。誰にも言わず、俺だけが知っている変化にする」
「……片方だけ、記録するのね」
「ああ。戻り方に差が出るかどうかだ」
一つ目。教卓のチョークを一本、手に取り、指先で削って、ひとつまみの白い粉を、俺の机の右の端に置いた。
「置いた。白い粉。俺の机の、右の端」
「白い粉。机の、右の端」
彼女が繰り返す。二重に、置く。
二つ目は、彼女が選んだ。空席の椅子——ではなく、その隣の椅子の脚を、床板の継ぎ目にぴったり合わせて置き直した。
「置いた。椅子の左前の脚。床の線の、真上」
「椅子の左前の脚。床の線の、真上」
三つ目を、俺は黙って置いた。自分の鉛筆の向きを、天板の木目に対して、斜めに。彼女は俺の手元を見なかった。見ない、と決めてもらった。声にも出さない。俺の頭の中にだけある変化。
それから、待った。
夕陽が半歩傾くほどの時間が過ぎて——チャイムが、鳴った。
下校を促す、いつものチャイム。いつもの長さで鳴り、いつもの余韻で切れた。
切れた瞬間、教室の空気が、一枚めくれた。
音ではなかった。光でもない。ただ、部屋の全部が、書き損じを消しゴムで払うように、すっと撫でられた。空席の机で浴びた、あの圧の、ずっと弱いやつ。俺の産毛だけが、それを覚えていた。
確かめる。
机の右の端。粉は、消えていた。指の腹で、木の面を撫でる。ざらつきは、ない。だが、目の高さを天板に合わせると——あった。爪の先ほどの、白い曇り。粉ではない。粉が置かれていた、という記憶のような染みが、木目の上に薄く残っていた。
椅子の脚。角度は元に戻っていた。床の継ぎ目からも外れていた。だが、継ぎ目の真上の一点だけ、床の艶が、ほんのわずかに違った。脚の先が触れていた点。言われなければ、誰も気づかない。言われても、たいていの目は見つけられない。
そして、鉛筆。
まっすぐに、戻っていた。木目に沿って、寸分の狂いもなく。曇りも、艶も、何もない。俺が斜めに置いたという事実ごと、天板の上から拭い去られていた。俺の頭の中にしか、あの変化はもう存在しない。
「……残ってるのは、二つだけ」
彼女が言った。俺は頷いた。
声に出して、二人で置いたものは、痕が残る。黙って、一人で置いたものは、跡形もない。戻せないのではなかった。戻そうとする力は、全部に届いている。ただ、二人分の声で観測されたものだけが、消し残しになる。
「傷をつけてるんじゃ、ないのね」
彼女は、床の艶の点を見下ろしていた。
「世界と喧嘩して、削り合ってるんじゃなくて。……忘れないように、置いてるの。わたしたちが二人で覚えてるものは、世界も、完全には忘れられない」
軍人の頭は、それを別の言葉に翻訳していた。痕は残る。痕は小さい。痕だけでは、扉は開かない。だが、積める。
※
二度目のチャイムは、壊れて鳴った。
いつもの四音が、二音目で伸びた。飴のように引き延ばされ、途切れ、そして——澄んだ無音が来た。広い部屋の空気。低い稼働音。あの、向こう側の静けさ。
「定時連絡。対象二名——」
管制官の声。俺は、迷わなかった。今日は窓を確かめるためではない。叩くためだ。スピーカーに向かって、腹から声を出した。
「二名、生存」
澄んだ無音が、続いた。三秒。四秒。届いていない。そう思いかけた、五秒目。
「……いま……『二名』って……声が——」
管制官の声が、型を失った。息を呑む音まで、こちらへ漏れた。届いた。全部ではない。俺の言葉のうち、たぶん二文字か三文字。それでも、初めて、こちらの音が向こうの部屋に落ちた。
彼女が、俺の隣で息を吸った。スピーカーを見上げて、短く、言った。
「帰る」
遅れて、ノイズ。向こうで何かが慌ただしく動く気配。その奥から、乾いた、温度のない声が、被さった。
「照合とは、記録を流れに揃える処理だ」
それだけだった。管制官への返答なのか、届いたこちらの声への返答なのか、区別のつかない一言。だが、俺の中では、それで足りてしまった。
揃える。
名札の字が、ほどけて流されていく。呼ばれない生徒の顔が、一枚に重なっていく。俺たちの置いた変化が、チャイムのたびに撫でられて戻っていく。あれが、揃えられる、ということだ。照合の完了とは、俺たちの記録が流れと区別のつかない形に均されることだ。完了を待って回収される俺たちは——たぶん、もう、俺たちではない。
出るなら、揃えられる前だ。向こうの手順ではなく、俺たちの手順で。
ノイズが、深くなった。
その底で、声とも読み上げともつかない、平坦な音の粒が流れた。
——照合残差……一……参照域、超過……三賢者……不死王級……白衣……
瞬きの間だった。意味の繋がらない単語の列は、拾い直す隙も与えずにノイズごと切れて、チャイムの三音目と四音目が、何事もなかったように鳴り終えた。
俺と彼女は、顔を見合わせた。
「……聞いた?」
「聞いた。意味は、分からない」
「わたしも」
分からないものは、分からないまま、棚に載せる。いま追うべきものは、別にある。
俺は、教室を見回した。机の端の白い曇り。床の艶の点。答案の余白の縦線。誰の目にも留まらない、小さな消し残しが、三つ。
「戻されるなら、残せばいい」
言葉にすると、腹が決まった。
「押し戻された後に残るものを、二人で置いて、二人で数えて、俺たちの手順にする。……足場は、そうやって作る」
彼女は、床の小さな艶を、もう一度だけ見てから、頷いた。




