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第06話:一名分の記録

昇降口の床は、硬かった。


切れ目をくぐって戻り、俺は靴箱の列に背を預けて、しばらく座っていた。夕方の光が床に長い。その長さを、目がうまく測れなかった。指を握る。開く。感覚はある。あるのに、皮膚の輪郭が一枚、遠い。流れの縁で薄められた分が、まだ全部は戻っていなかった。


彼女は、俺の正面にしゃがんで、俺の顔を見ていた。


「名前、言える?声に出さなくていい。頭の中で」


俺は、胸の内で自分の名を確かめた。あった。一拍も、遠くなかった。頷くと、彼女の肩から力が抜けた。


「もう一度見に行く、とは言わないで」


「言わない。今日は」


「今日は、ね」


彼女は立ち上がり、俺に手を差し出した。引かれて立つ。足の裏に、床の硬さが揃って戻ってきた。


教室へ向かう廊下で、遅れて、届いたものがあった。


流れの中で見たもの。数えられなくなった朝。覚えのない血の味。俺の声。その奔流の隙間に、一つだけ、俺のものではない断片が混ざっていた。見た時は、押し流される量の中で区別がつかなかった。いま、静かになった頭の底から、それだけが浮かび上がってきた。


机だ。


解きかけの答案が載った机。鉛筆を置いて、立ち上がりかけた誰かの、腰の浮いた一瞬。教室の戸口から、その誰かへ向けられた声。おい、行くぞ、でも、待て、でもない。もっと短い、手順の途中で人を呼ぶ時の声。そして、断片はそこで流れ、切れた。


立ち上がりかけたまま。呼ばれたまま。続きのないまま。


「……見たの?」


俺の足が止まっていたらしい。彼女が覗き込んでいた。隠さない。手順どおり、俺はいま浮かんだものを、そのまま言葉にした。机。答案。腰の浮いた一瞬。途中で切れた断片。


彼女は、聞き終えて、一言だけ言った。


「あの席だ」


※


教室に、生徒はもういなかった。


窓際の列の、いちばん奥。椅子は引き出されたまま、少し斜めを向いている。俺は膝をつき、いつもの作法で、机の中を確かめた。折れた鉛筆。削り口だけが新しい。角の丸い消しゴム。二つ折りの答案。余白の端の、小さな3。全部、あった。


前も、君を見た。


あの声を、思い出す。空席の側から聞こえた声。そして、上流からも、同じ言葉が流れてきた。同じ声だったのか。俺には決められなかった。空席から届いたのか、流れの上のほうから届いたのか——この教室と、あの流れの、どちらが声の出どころなのか。両方が、同じ流れの中にあるのかもしれなかった。決められないものは、決めない。棚に載せる。


「置き去りに、されたんだ」


俺は言った。誰、とは言わなかった。言えるだけの材料がない。ただ、断片の意味だけは、もう組み上がっていた。


「過去の、何度目かの反復の中で。手順の途中で呼ばれて、立ち上がって……その先が、ない。続きをやらせてもらえないまま、ここに、途中だけが残ってる」


彼女は、答案の3を見ていた。


「一人じゃ、なくて」


ゆっくりと、言った。


「一名分、なのね」


一名分。


あの容器の側面の一行が、俺の中で音を立てて重なった。できあがり量、一名分。工場で刷られた、誰も気に留めない一行。人を数える時の、いちばん冷えた単位。俺も、そう数えられていた。十七号。対象。一名。数えられる側の嫌さなら、身体が覚えている。


だが同時に、認めるしかなかった。この世界で、あの誰かは、一名分という単位でだけ、まだ残っている。名前は滲み、顔は流れ、それでも机の中の途中と、答案の3と、一名分の枠だけが、流されずにここにある。数えられることが、その誰かの、最後の輪郭になっていた。


嫌な単位だ。そして、いまは、その単位しか掴むものがない。


「決めよう」


俺は立ち上がった。


「三人分の三分を、やる。今日、ここで」


※


準備は、少なかった。


空席の机の上を、何も置かずに空ける。もとから何もない天板を、それでも二人で確かめて、誰のものでもない場所として空けておく。カップも、湯も、使わない。あの棚の一名分の手順には、乗らない。それはもう決めてある。


俺と彼女は、空席を挟むように、通路の机に着いた。


「手順を言う。これから、三分待つ。二人分じゃない。三人分として、待つ」


「三人分として、待つ」


彼女が繰り返す。二重に、置く。


黒板の上の時計を、俺たちは見た。十時のまま止まった文字盤。傾いたままの秒針。


「始める」


言った、その時だった。


かち。


秒針が、動いた。


かち。かち。正しい間隔。正しい音。給湯室であの三分を測った時と、同じ速さで、止まっていた針が目盛りを刻み始めた。


一目盛りごとに、教室の中身が増えていく気がした。夕陽の色が半歩深くなる。埃が光の帯の中で回る。そして、匂いが届いた。白く濁った、魚介ともミルクともつかない、あの湯気の匂い。湯気はどこにもない。匂いだけが、空席の机の上に、薄く立っていた。


彼女の目が、俺を見る。俺は頷く。隠さない。二人とも、嗅いでいる。


かち。かち。


俺の耳が、拾った。細い音。紙の上を、鉛筆の先が走る音。空席のほうから。見なかった。見てはいけない気がしたのではない。見る必要がなかった。三人で待っている。それが分かるのに、目は要らなかった。


三分の中身が、埋まっていく。二人分ではない濃さで。


秒針が文字盤の半分に届く前に——それは、来た。


水位が上がるような、音のない圧が、教室の全部を撫でた。


夕陽の色が、一段戻る。埃の回転が、巻き戻るように逆を向く。湯気の匂いが、薄紙を剥ぐように引いていく。鉛筆の音が、途切れた。空席の椅子が、床を擦らずに、角度だけ元へ戻ろうとする。秒針の音が、間隔を失って、迷い始める。


頭の中まで、撫でられた。


いま数えていた三分の、最初のほうが、薄い。始める、と言った自分の声が、遠い。誰と待っていたのかが、指の間から流れ出ていく——


「離れない」


彼女の声がした。


俺は、掴んだ。声に、出した。


「隠さない」


「名前は読まない」


「まだ見ないものは、まだ見ない」


二人の声が、交互に、教室の中に杭を打っていく。最後の一本を、俺たちは同時に言った。


「置いていかない」


圧が、抜けた。


教室は、夕方の教室だった。夕陽の長さは、入ってきた時と同じ。空席の椅子は、引き出されたまま、少し斜め。時計の針は、十時。秒針は、傾いたまま止まっている。匂いは、ない。音も、ない。


全部、戻っていた。


俺は膝をつき、机の中の答案を、そっと引き出した。二つ折りの紙。余白の端。


3が、なかった。


一瞬、そう見えた。夕陽の逆光で、紙の余白がただ白く飛んで見えただけだった。角度を変える。3は、あった。鉛筆の細かい字で、同じ場所に。


そして、その隣に。


線が、一本。


短い、縦の線だった。数字ではない。文字でもない。名前の一画目と呼ぶには、まっすぐすぎる。何かを数えた時の、正の字のいちばん最初の一本。それだけが、3の隣に、増えていた。


俺は、彼女に紙を見せた。彼女は長いこと、その線を見ていた。


三分は、成立しなかった。秒針は止まり、匂いは引き、音は途切れて、教室は元に戻された。俺たちの待った時間ごと、流れは全部を押し戻していった。


それでも、一本、残った。


「……数え始めてる」


彼女が、囁いた。


誰が、とは、二人とも言わなかった。ただ、押し戻されても残るものが、この世界にはある。その一本を、俺たちは声に出して、二人の頭に置いた。

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