第05話:上流
切れ目は、昇降口の横で、同じ幅のまま俺たちを待っていた。
くぐる前に、手順を声に出した。離れない。隠さない。名前は読まない。まだ見ないものは、まだ見ない。置いていかない。五つ目まで、二人で。
乾いた廊下は、変わっていなかった。白いカーテン。景色のない窓。音を運ばない空気。給湯室の前を過ぎる。棚の一名分は、そのままだった。手を伸ばさない。それも、もう手順のうちだ。
今日は、その先へ行く。
給湯室より奥を、俺たちはまだ歩いたことがなかった。
廊下は、続いていた。
最初の変化は、扉だった。間隔が、開いていく。十歩に一枚だった引き戸が、二十歩に一枚になり、やがて、途切れた。次に、窓が終わった。白いカーテンごと、壁から窓がなくなって、廊下はただの壁と床と天井になった。
蛍光灯の数も、減っていた。減っているのに、暗くならない。光源の見当たらない、薄い明るさだけが残った。
「……音」
彼女が、立ち止まった。
俺も止まる。耳には、何も届いていなかった。無音だった。なのに、胸の骨が、細かく震えていた。耳を通らずに、身体へ直接届く低さの、何か。近い音を探すときのやり方では、見つからない。これは、大きすぎるものの音だ。壁一枚向こうを、川が流れている時の、あの感じに似ていた。
似ていて、違った。川なら、水の音がする。これには、音がなかった。音のない轟音が、廊下の奥から、絶え間なく押し寄せていた。
「進むか」
「……うん。離れないで」
彼女の手が、俺の袖を摘まんだ。摘まむではなく、握るに近かった。
廊下の奥に、終わりが見えた。
壁ではなかった。扉でもない。廊下が、そこで途切れていた。床も、天井も、輪郭を保ったまま、闇でも光でもないものの手前で、切りそろえたように終わっている。
その向こうを、何かが流れていた。
見える、とは言い難かった。目で追える形がない。ただ、幅と、速さと、向きだけが、はっきりと分かった。右から、左へ。廊下の切れた先を、幅の分からない何かが、一定の速さで流れ続けている。顔に、風はなかった。なのに、頬の産毛が、流れの向きに倒れようとしていた。
俺は、縁まで、あと三歩の位置で止まった。それ以上は、足が出なかった。軍人の判断ではなかった。崖の縁で身体が勝手に張るのと、同じ止まり方だった。
右。
流れて来る側。そちらへ、目を向けた。
瞬間、届いた。
チョークの音。チャイム。目を開けると教室の天井。頬に朝の光。削れた鉛筆の匂い——俺の朝だった。数えなくなった、あの朝。それが、一つではなかった。同じ朝が、重なって、連なって、流れの上流から次々に押し流されてくる。
朝だけではなかった。
暗い部屋。血の味。警告灯。何故こうなった、と考えている誰かの、ざらついた思考の断片。任務を復唱する声。対象を確認、と言う声。俺の声だった。どれも、俺の声だった。だが、俺の記憶ではなかった。覚えのない朝。覚えのない血の味。覚えのない、彼女の見捨て方。
数えようとして、やめた。多い。数えるという手段が意味を持たない量の、俺たちが、上流にいた。
その中から、一つの声が、届いた。
——次は、彼女を見捨てろ。
膝が、笑った。
知っている声だった。あの学園の深部で、俺に囁いた声。俺自身の声で、俺に投げられた言葉。あれは、この流れの上流から来ていたのだ。俺より前に、ここを流れていった俺の、擦り切れた声。忠告か、命令か、それとも、ただの後悔の形か。
——前も、君を見た。
別の断片が、掠めた。空席の声と、同じ言葉。同じ向きから。上流から。
もっと聞こうとして、俺は、目を凝らした。
凝らした分だけ、流れが、近くなった。
頬の産毛が倒れる。輪郭が、流れの向きに梳かれる。指先から、感覚が薄くなっていく。冷たさではなかった。薄まる、としか言えなかった。俺という濃さが、縁のほうから、流れに溶いて延ばされていく。自分の名前を思い浮かべて、その名前が、一拍、遠かった。
左を、見そうになった。
流れて行く先。下流。視界の端で、そちらは、白かった。白い、それだけだった。首が、そちらへ回りかけて——
袖が、強く引かれた。
身体が、廊下の側へ戻る。床の硬さが、足の裏に帰ってくる。彼女が、両手で俺の腕を掴んでいた。爪が食い込むほどの力で。
「見すぎないで」
声が、震えていた。
「……あなたが、削れる」
削れる。
その言葉と一緒に、指先の感覚が戻ってきた。薄められていた分が、ゆっくりと、俺の濃さに戻ってくる。彼女の爪の痛みが、いちばん先に濃かった。
俺たちは、縁から三歩の位置を、後ろへ下がった。流れは、変わらず流れていた。俺が見ても、見なくても。近づいても、削られても。右から、左へ。一定の速さで、絶え間なく。
怒っていなかった。
呼んでもいなかった。
ただ、流れていた。




