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第04話:向こう側の声

翌朝、印刷室のコピー機は、止まっていた。


排紙トレイは空だった。あの帳票も、授業プリントの山も、ない。トナーの匂いだけが、部屋の空気の底に薄く残っていた。紙は回収され、文面は書き換わる。この世界の紙が信用できないことは、もう知っている。だから昨日のうちに、俺たちは声で覚えた。


アカシャ照合、第二段階。対象、二。完了後、記録を統合。


覚えた言葉は、二人の頭の中に、二重に置いてある。



変化は、夕方に来た。


掃除の時間が終わり、生徒たちが引き上げていく。俺たちは教室に残り、今日の観測を声で並べる時間にしていた。


スピーカーが、鳴った。


黒板の上の、白い放送スピーカー。いつもはただの箱にしか見えないそれが、その時だけ、こちらを向いているように思えた。


ノイズが、来た。


砂嵐ではなかった。ざらつきがない。むしろ、静かすぎる音だった。広い部屋の空気だけを拾ったような、澄んだ無音。スピーカーから、別の部屋の静けさが、教室へ流れ込んでくる。


肌が、先に覚えていた。低い機械の稼働音。空調。遠くで規則的に鳴る、電子音の粒。鼻の奥に、消毒液の記憶が立った。どこの静けさなのか、意味が追いついたのは、その後だった。


声が、来た。


「定時連絡。対象二名、バイタル——」


若い女の声だった。平坦に整えられた、報告のための声。俺は、この声を知っている。数値、確認。かつて、俺を番号で呼んでいた声。


数値の部分だけが、届かなかった。声が切れたのではない。音はある。あるのに、聞き取ろうとすると、耳の手前で輪郭がほどける。帳票の数字と、同じ逃げ方だった。この世界は、言葉は渡す。数だけを、渡さない。


机の下で、彼女の指が俺の袖を摘まんだ。聞こえている。彼女にも。


声は、一つではなかった。


報告の声の向こうに、別の声たちが重なっていた。遠い。単語だけが、波の頭のように、時々こちら側へ届く。


——切断。


——限界。


——回収を。


低い男の声だった。命令に慣れた、硬い声。単語のあいだに、卓を叩くような音が一度、混ざった。


それに応える声が、あった。乾いた、温度のない声。俺の背中が、椅子の上で勝手に伸びた。返事の姿勢。身体のほうが、先にあの声を覚えていた。


「照合完了まで、維持する」


維持。


その二文字が、教室の空気を一段、冷やした。維持されているのは、回線か、実験か、それとも——外に横たわっている、俺たちの身体か。


「……わたしたちの、話をしてる」


彼女が、囁いた。


「バイタルって、身体のことでしょう。外に置いてきた……わたしたちの」


切断。限界。回収。単語を並べれば、向きは一つしかなかった。この学園の時計は十時で止まっている。だが、外の時間は流れている。流れる時間の中で、置いてきた身体だけが、静かに減っていく。


俺は、スピーカーに向かって、声を出してみた。


「こちら——」


届いた手応えは、なかった。澄んだ無音は揺れず、向こうの声たちは、こちらに気づいた素振りもなく続いていく。窓だ、と思った。回線ではなく、窓。向こうの部屋が見えるだけの、はめ殺しの窓。声は、向こうからしか流れてこない。


報告の声は、型どおりに続いていた。対象二名。意識レベル、変動なし。継続観測。型は、声から感情を抜くためにある。抜き切れていないのが、素人の耳にも分かった。語尾がわずかに沈む。読み上げる速さが、行の途中で揺れる。


「この人……」


彼女が、スピーカーを見上げた。


「報告、したくないんだ。ほんとは」


そして、型が、破れた。


息を吸う音が、先に聞こえた。報告には、要らない音だった。


「……早く、帰ってきて」


小さかった。番号も、対象も、バイタルも、そこにはなかった。定時連絡のどの行にも書かれていない、ただの声だった。


直後、乾いた声が、重なった。


「照合、進行率六十——」


そこで、切れた。


スピーカーは、ただの丸い網に戻った。澄んだ無音も、部屋の静けさも消えて、夕方の教室に、俺たちだけが残された。


進行率、六十。


数字を渡さないこの場所で、六十だけが、向こう側からこぼれていた。

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