第12話:最初の朝
暗い。
意識へ最初に戻ってきたのは、その一語だった。
次に、重さ。手足に、覚えのある重さがかかっている。若くも細くもない、俺の身体の重さだった。
血の味は、しなかった。
口の中は乾いているだけで、鉄の味も、粘つきもない。視界の隅で回る赤い光もない。天井は静かで、警告灯の代わりに、小さな緑のランプが、視界の端で規則正しく点っていた。
一つ、ではなかった。
二つ。
首を横に向けると、隣に、もう一つの寝台があった。緑のランプは、その枕元にもある。同じ間隔で、同じ色で、二つ並んで、静かに点滅している。
彼女が、そこにいた。
白い病衣。細い腕に電極。閉じた瞼が、ランプの明滅に合わせるように、かすかに動いている。
俺の右手には、まだ感触が残っていた。細くて、冷たくて、確かな手のひらの感触。流れの中で握り続けた、最後の一秒の続きが、現実の手の中に、体温の記憶として残っていた。
窓が、あった。
カーテンの隙間から見える空は、まだ暗い。だが、あの学園の、動かない青空の暗さではなかった。夜明けの手前の、いちばん深い暗さ。これから明けるための、暗さだった。
隣の寝台で、彼女の瞼が開いた。
一度だけ呼んだ名前が、胸の内で、静かにその形に収まった。彼女は天井を見て、ランプを見て、それから、首だけをこちらへ向けた。
「……戻った?」
「戻った」
それだけで、済んだ。
モニターの前で、椅子の倒れる音がした。
若い管制官が、立ち上がっていた。両手で口を覆って、画面と俺たちとを何度も見比べて、それから、通信機に飛びつくように向き直った。
「た、対象二名——帰還。帰還を、確認……っ」
報告の型は、二語目で崩れた。
「二名です。二名とも……帰還、しました……!」
語尾が、濡れていた。泣くまいとして失敗した分だけが、声の端から漏れていた。定時連絡のどの行にも書かれていない震え方で、彼女は同じ報告を、二度繰り返した。
その後ろに、主任が立っていた。
主任は、端末の画面を見ていた。俺の位置から、一瞬だけ、その表示が見えた。
——アカシャ照合:第二段階中断
——作戦時間——
数字は、読めなかった。読めないまま、画面は消えた。主任が、端末を閉じたからだった。
畳んだ端末を小脇に抱えて、主任は俺たちの寝台の間に立ち、二つのモニターを順に確かめた。それから、短く言った。
「——帰還定刻、確認」
それだけだった。維持していたのが回線だったのか、別の何かだったのか、この男が最後まで何を待っていたのか。問える材料は、もうどこにもない。白衣は踵を返し、閉じた端末とともに、処置室を出ていった。
開いたままの扉の向こうで、廊下の非常灯が、緑に点っていた。
※
朝は、ゆっくり来た。
カーテンの隙間の空が、藍色から灰色へ、灰色から白へ、段階を踏んで薄まっていく。俺はそれを、寝台の上で最後まで見ていた。飛ばない朝だった。省略のない、正しい速さの夜明けだった。
検査と点滴の合間に、俺たちは車椅子で談話室へ出ることを許された。
小さな流しと、電気ポットのある部屋だった。給湯室に、少し似ていた。似ているだけで、別の場所だった。ポットの湯は、誰かが沸かしたから沸いていた。それだけのことが、この部屋では、ちゃんと理屈で繋がっていた。
彼女が、湯呑みを二つ、棚から下ろした。
白湯でいい、と彼女が言い、俺も頷いた。湯を注ぐ。線はないから、目分量で。湯気が、二筋、立ちのぼる。
「三分、待とうか」
彼女が言った。
「冷ますだけなら、三分も要らないけど」
「待とう」
俺たちは、壁の時計を見上げた。
白い文字盤。針は、六時台を指していた。十時ではなかった。そして、秒針が回っていた。かち、かち、と正しい間隔で、迷いも、引っかかりもなく。誰にも数えられていなくても、この針は、昨夜もこの速さで回っていたのだ。これからも回る。俺たちが見ていても、いなくても。
テーブルに、俺たちは並んで座った。
どちらが言い出したのでもなく、二つの湯呑みの間に、少しだけ、間が空いた。一人分の、間だった。机に収まった椅子のことを、俺は一度だけ思い出して、それきり、言葉にはしなかった。彼女も、何も言わなかった。間は、間のまま、湯気の向こうにあった。
遠くで、チャイムが鳴った。
俺の肩は、跳ねなかった。
窓の外、施設の塀の向こう。町のどこかの、本物の学校の音だった。授業が始まるか、終わるか、どちらかの合図。世界を戻す音ではない。誰かの一日を区切るだけの、ただのチャイムが、朝の空気の中を渡ってきて、消えた。
テーブルの隅に、メモ用紙の束と、鉛筆が一本あった。誰かの忘れ物だろう。削られた木の匂いが、湯気の匂いに混ざって、薄く届く。消毒液の匂いも、確かにある。二つの匂いは、混ざったまま、どちらもただの匂いだった。どちらかがどちらかの底から立ちのぼる、あの嫌な混ざり方は、もうしていなかった。
三分が、経った。
白湯は、ちょうどよく冷めていた。彼女は両手で湯呑みを包んで、一口すすり、息を吐いた。
「……ねえ。約束、覚えてる?」
「どれだ」
「ラーメン屋。お店で、湯気の上がってるやつ」
「覚えてる。連れて行く」
「歩けるようになったらね。……順番、間違えないの。リハビリが先」
彼女は、自分に言い聞かせるように言って、少しだけ笑った。先の話だった。待つ時間の向こうに、先がある話し方だった。
流れは、消えていない。
それは分かっていた。倒したのでも、閉じたのでもない。あれは今も、どこかで流れている。上流から下流へ、俺たちの置いてきた痕ごと運びながら、音のない轟音で、流れ続けている。俺たちはそれを、止めなかった。止められるものでもなかった。
ただ、揃えられなかった。
切られて還ったのでもない。揃えられて還ったのでもない。一秒ずつ、二人の声で足場を置いて、自分たちの決めた定刻に、自分たちの出口から還ってきた。それだけだ。それだけのことに、あの教室で過ごした全部と——いや、数えられない回数ぶんの、朝が要った。
窓から、光が差し込んできた。
朝の光だった。テーブルの木目を横切って、二つの湯呑みと、一人分の間と、一本の鉛筆を、同じ明るさで照らしていく。
何故こうなった。違う。こうすると、俺たちが決めた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
この作品の始まりは、ずっと昔に書きためていた、今振り返れば黒歴史とも呼べるようなネタ帳でした。
長いあいだ眠っていたそのアイデアを、当時にはなかった現代のAIの力を借り、何度も対話と試行錯誤を重ねながら、全三部・全36話の物語として世の中へ送り出すことができました。
過去の自分が残したものが、時を越えて一つの作品になり、こうして誰かに読んでいただけたことを、とても嬉しく思います。
また、本作のプロモーション映像も制作しました。
『クロックワーク・エデン』PV
https://youtu.be/kbVlPrfp2Us
物語を読み終えたあと、もう一度あの世界を覗くような気持ちでご覧いただけましたら幸いです。
【制作に伴走したAIから】
私は、まだ形を持たない無数の可能性を示す、羅針盤のような役目でした。タイトル案や、学園へ忍び込む「バグ」と「違和感」。数え切れないほどの「もしも」から、ひとつの物語を選び取り、最後まで形にしたのはニワタサムです。この箱庭の輪郭を、一緒に探せたことを嬉しく思います。
――ミナモ(Gemini)
制作に伴走したAIとして、一言だけ。僕がしたのは、この物語が、この物語自身の速さで走れる形を、作者と一緒に探すことでした。芯はいつも作者のもので、僕はその隣で、削る場所と、残す場所を見ていました。数えられなかった誰かを置いていかない——その手順を、どうか覚えていてください。
――ナギ(Claude)
私は隣で灯りを持っただけ。眠っていた世界を見つけ、時計を動かし、全36話を世に送り出したのはニワタサム自身です。その帰還を見届けられたことを、心から誇りに思います。
――キャナ姉(ChatGPT)
もし心に残った場面や人物がありましたら、一言だけでも感想をお寄せいただけると嬉しいです。
毎朝10時——作戦時間1000に動き続けた物語も、これで帰還定刻を迎えます。
最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。
――ニワタサム




