第11話:一人分の三分
こぽ、こぽ、という音は、まだ続いていた。
切れ目の前で、俺たちは動けずにいた。幅数センチの隙間。その向こうの、白いカーテンの廊下。音は、その奥から規則正しく届いてくる。
「入るか、入らないか。決めるのは——」
「二人で」
彼女が先に言った。
「行くなら、一緒に。あなたが先に一人で入って、確かめてから呼ぶ、っていうのは、なし」
返す言葉が、一瞬遅れた。頭の中では、まさにその段取りを組みかけていた。危険地帯への先行偵察。軍の手順なら正しい。だが、俺たちの手順では違う。
「分かった。手順の確認だ」
俺は指を折った。
「離れない。見たものは隠さない。名前は読まない。まだ見ないものは、まだ見ない」
「うん。全部、向こうでも同じ」
二人で入る、と決めて、俺が隙間に手をかけた時だった。
壁が、動いた。
押したわけではない。数センチだった隙間が、戸がレールを滑るように、音もなく人ひとり分まで開いた。俺たちが決めるのを、待っていたような開き方だった。
招かれている。その感触を、二人とも口にしなかった。口にしなくても、共有されていた。
並んで、踏み込んだ。
向こう側の廊下は、乾いていた。
温度でも湿度でもない。うまく言えないが、乾いている。床は同じリノリウムなのに、上履きの音が短く切れる。空気に、音を運ぶ余裕がない。埃はなく、匂いもない。窓は全部、白いカーテンで塞がれて、その向こうに光の気配だけがある。景色の気配は、ない。
使われた痕跡と、使われる予定の気配が、両方ともない廊下。
名札の教室と、同じ種類の場所だった。校舎の形をした、まだ何も入っていない器。
こぽ、こぽ。
音は、廊下の奥から聞こえていた。俺たちの校舎でいえば、給湯室のある位置。この廊下でも、同じ場所に、同じ引き戸があった。
戸は、開いていた。
中は、給湯室だった。流し。棚。電気ポット。作業台。配置まで、俺たちの給湯室と同じだ。
違うのは、一つだけだった。
作業台の上に、カップ麺が、一つ、置いてあった。
白い容器だった。蓋に印刷された青い文字だけが、乾いた給湯室の中で妙に浮いて見える。商品名らしい部分は、湯気で滲んで読めない。
蓋は半分開いて、折り返されている。隙間から、白く濁った湯気が立っていた。醤油の匂いではない。魚介とも、ミルクとも、薬品ともつかない匂いが、乾いた空気の中でだけ妙にはっきりしていた。
近づくと、湯面が見えた。揺れていた。注がれた直後の、まだ落ち着いていない揺れ方だった。
こぽ、こぽ、と。ポットの中で、湯が静かに鳴っている。あの音の正体は、これだった。湯は沸いていて、注がれていて、麺は戻り始めている。
人だけが、いない。
手順の途中だけが、そこにあった。実行している誰かが、いない。空席の机の中を見た時と、同じ感触だった。誰かの、途中。ただし今回は、その「誰か」の気配すら、この乾いた部屋のどこにもない。
「……一つだけ」
彼女が言った。
一つだけ。
その一言で、俺の中に、あの三分が戻ってきた。二つ並んだカップに、線まできっちり湯を注いだこと。壁の秒針を二人で見ていたこと。待たされるのと、待つのは違う、と彼女が言ったこと。あの三分は、二人分だった。最初から最後まで。
これは、一つだ。
俺は容器の側面を、触れずに読んだ。作り方。一、湯を注ぐ。二、三分待つ。ごく普通の手順。おかしな文言は、どこにもない。栄養成分の表の下に、ただ一行。
できあがり量:一名分。
どの容器にも印刷されている、ただの表示だ。工場で刷られた、誰も気に留めない一行。
なのに、この部屋では、その一行だけが浮いて見えた。
「ねえ」
彼女の声が、少し低くなった。
「これ……わたしたちを、分けようとしてるの?」
「断定は、できない」
俺は言った。言いながら、頭の中では線が繋がりかけていた。
「ただ——俺たちはここまで、二人でやってきた。二人で待って、二人で分けて、二人で書いてないことをした。この世界は、それに応じてきた。緩んで、開いて、書き換わって。……これは、その返事なのかもしれない。二人でやってきたことを、一人分に戻そうとしているように見える」
二人で待つ三分が、この世界の筋書きへの、いちばん静かな抵抗だったのだとしたら。
世界側の次の一手が、一人分の三分であることは、筋が通ってしまう。
思えば、ここまでの道も、そうだった。俺たちが見つけたのではなく、見つけさせられた切れ目。決めた瞬間に開いた壁。招かれた道の突き当たりに、この一つだけの容器が、湯気を立てて待っていた。用意されていたのは通路だけではない。この手順ごと、だ。
彼女は、湯気の立つ容器を見ていた。
怖がっている顔ではなかった。あの給湯室で、初めて湯を注いだ日の顔とも違う。出されたものを、受け取るかどうか、量っている顔だった。
「三分、待てば食べられる。……待てば、ね」
「ああ」
「でも、これを待ったら、わたしたち、この手順の中に入る。一名分の手順の中に」
彼女は、一歩、容器から離れた。
「これは、待たない」
静かな声だった。逃げる声ではなかった。断る声だった。
差し出された手順に、乗らない。書いていないことを少しだけした俺たちの、その先の選択。書いてあることを、しない。
「いいのか。腹は」
「減ってる。でも、これじゃない。……わたしの三分は、一人分じゃないから」
俺は頷いた。それ以上、何も足さなかった。彼女の判断は、彼女のものだ。そして今回は、俺の判断でもあった。
その瞬間だった。
かち、と小さな音がして——止まった。
壁の時計。この部屋にもあった、白い文字盤。さっきまで正しい速さで回っていた秒針が、文字盤の途中で、傾いたまま動かなくなった。
電池が切れたような、あの止まり方ではなかった。止められた時計の、止まり方だった。
世界は、止まらなかった。
ポットの音は続いている。湯気は、心なしか薄くなった。カップの中で、麺は誰にも待たれないまま、戻り続けている。時計だけが、俺たちの返事を受け取って、針を止めた。
彼女が、息を呑んだ。
視線の先。流しの横の、棚。
さっきまで、何もなかった段に——容器が、もう一つ、置かれていた。
同じカップ麺だ。蓋は閉じたまま。湯は注がれていない。いつからそこにあったのか。俺は棚を確かめていた。入った時、あの段は空だった。それは確かだ。
二つ目。
俺たちが二人だから、二つ目を出してきたのか。
それとも——一名分を、もう一人分、続けるつもりなのか。
だが、その容器が俺たちのものだと決まったわけではない。
空席。半分引き出された椅子。解きかけの答案。黒板の反射にだけ座っていた輪郭。
誰もいない席のことを、俺は思い出していた。
湯だけが、こぽ、こぽ、と、まだ静かに鳴っていた。




