第10話:切れ目の向こう
黒板の前から、俺たちはしばらく動けなかった。
白いチョークの線。等間隔に並んだ四角の列。通路のような空白。全体を囲う大きな枠と、その一辺に入った、小さな切れ目。
「照合する。数え間違いなら、それでいい」
俺は図と教室を、一列ずつ突き合わせていった。図の四角は横に六列。机も六列。図の手前の空白は、教壇の前の空間。図の枠の切れ目は、右の端——振り返れば、入り口の引き戸が、同じ側にある。
「切れ目、扉の位置と合ってる」
彼女も、俺と反対側から数えていた。二人分の照合が、同じ答えで揃う。偶然の一致で済ませられる段階は、もう過ぎていた。
そして、彼女が先に気づいた。
「……ねえ、これ。枠の外」
目を寄せる。
枠の切れ目から、外側へ向けて、線が一本、伸びていた。
ごく薄い。ほかの線の、半分もない濃さだ。チョークを寝かせて、力を抜いて引いたような線。それは枠を出て、黒板の右端へ向かい、途中でわずかに折れて、板の縁で切れていた。
図をこの教室だとするなら、切れ目は引き戸で、線は——廊下だ。四階の廊下を奥へ向かい、折れて、その先。方角の感覚を重ねれば、階段を降りて、昇降口の方面へ続く向きに見えた。
俺は、その薄さが気になった。
図の本体は、迷いのない濃い線で引かれている。この一本だけが、囁くような薄さだ。堂々と示されたものではない。見つけられるかどうかを、試されているような線だった。
「導線だ」
俺は言った。
「切れ目から出て、どこかへ向かう線。この線の先をたどれば……外に、近づけるのかもしれない」
口にした瞬間、自分の声が少しだけ速くなっているのが分かった。出口。この閉じた校舎で、何度も弾かれ続けた言葉だ。
彼女は、すぐには頷かなかった。
図を見て、それから俺を見た。
「切れ目があるからって、外とは限らない」
静かな声だった。
「檻にだって、扉はあるでしょう。餌を入れる口とか、掃除する口とか。……開いてる方向が、外向きとは限らない」
俺は、否定しなかった。できなかった。彼女の言う通りだ。切れ目は、囚われた側のために開くとは限らない。設計者の側が使うために開けた口かもしれない。
「消すか、写すか、迷うところだが」
「写しても、書き換えられる」
「ああ。焼きそばの容器と同じだ。この世界では、写しは証拠にならない」
だから、覚える。二人で、声に出して。図の形、線の向き、切れ目の位置。俺たちの記録方式で、頭に二重に置いた。
それから、俺は一つだけ試した。
図の枠の端。四角にも線にも触れない、余白ぎりぎりの位置へ、指先を軽く置く。
消すためではない。書き換えるためでもない。この線がただの粉なのか、それとも——
指の腹に、白いチョークの粉が、薄くついた。
それだけだった。図は崩れていない。
その時。
遠くで、音がした。
重い引き戸が、一枚、開く音だった。廊下の奥。この教室ではない、どこか別の部屋の戸が、レールを滑って、止まる。開けた者の足音は、続かなかった。戸だけが、開いた。
俺と彼女は、顔を見合わせた。
「……今の」
「ああ。触った瞬間だ」
図に触れると、校舎が応じる。
どちらが図で、どちらが実物なのか。その境目が、指先の白い粉の分だけ、曖昧になった気がした。
「触っただけで、戸が開くなら」
彼女が図を見たまま言った。
「消したら、どうなるの。書き足したら」
「分からない。だから、やらない。反応の大きさが読めない操作は、しない」
図が校舎なら、消すことは壊すことかもしれない。書き足すことは——何を増やすことになるのか、想像がつかない。指先の粉一つで戸が開く世界で、それ以上は賭けだった。
「行ってみよう」
言ったのは、彼女だった。
「線の先。……確かめないままにしておく方が、怖い」
俺たちは教室を出た。手順は変えない。離れない。見たものは隠さない。名札は読まない。あの札は、まだ見ない。棚に載せたものは載せたまま、二人で廊下を進んだ。
四階の廊下は、静かだった。
歪みは——ほとんど、感じられなかった。扉の間隔は揃い、突き当たりは引き伸ばされず、蛍光灯は明滅しない。前にここで弾かれ続けたことが、別の建物の記憶のように思えるほどだ。
ただ、自由になった、という感じはしなかった。
歪みが解けたのではなく、歪ませる必要がなくなった。そんな感触だった。迷路の壁が消えるのは、迷わせる必要が済んだ時だ。
線が折れていたあたりで、階段を降りる。踊り場の窓から、動かない青空が見えた。二階の廊下では、掲示板の前を通った。行事予定の日付が、視界の端で、一瞬だけ形を結びかけて——確かめる前に、また霞んだ。
昇降口の手前まで来て、彼女が足を止めた。
「……ここ」
昇降口の横。靴箱の列が終わった先の、壁。
そこに、切れ目があった。
継ぎ目ではない。壁材の合わせ目なら、ここまで何度も歩いた俺が見落とすとは思えない。それは、縦に細く走る、幅数センチの隙間だった。天井近くから床まで、まっすぐに。黒板の枠に入っていた切れ目と、同じ比率の、同じ形。
昨日まで、ここは壁だった。
隙間の奥から、薄い光が漏れている。
外の光ではなかった。太陽の色ではない。蛍光灯の、白い光だ。
俺は隙間に、視線だけを差し入れた。
向こうに見えたのは、校庭でも、並木でも、空でもなかった。
廊下だった。
この校舎と同じ床。同じ窓の並び。同じ扉。ただし、窓の外に景色がない。白いカーテンが全部引かれて、その向こうの気配がない。どこか——名札の教室に、似ていた。使われた痕跡と、使われる予定の気配が、両方ともない廊下。
もう一つの、内側だった。
「……出口じゃない」
彼女が言った。
「通路だ」
俺は答えた。
外へ裂けた口ではない。内と内をつなぐために、誰かが設計した道。俺たちが見つけたのではなく、俺たちに見つけさせた道かもしれない。触れた指先の、チョークの粉を思い出す。校舎は応じた。応じて、ここを開けた。
踏み込むべきか。
迷っていると、隙間の向こうから、音がした。
こぽ、こぽ、と。
低く、規則正しく、湯の沸く音だった。給湯室のポットの、あの音。誰もいないはずの、もう一つの内側の、どこか奥で——湯だけが、沸いている。
俺たちは切れ目の前で、まだ動けずにいた。




