第09話:檻の設計者
お好みで、書いていないものを加えてください。
その一文を、俺たちは翌日、もう一度確かめに行った。容器はもう捨ててある。だが給湯室の棚には、同じ焼きそばが、また二つ補充されていた。側面の作り方は——五工程だった。最初から五つ目があったような顔をして、印刷の文字がそこに並んでいた。
「音読したよね。四番までだった」
「ああ。二人で確認した。あれは後から増えた」
誰が、とは、どちらも言わなかった。言えるだけの材料がない。分かっているのは、俺たちが書いていないことをした後で、世界の側の文面が変わった、という順番だけだ。
給湯室を出て、俺たちは空き教室に入った。整理が要る、と二人の意見が一致していた。
「並べるぞ。この学園に戻ってから、前と違ったものを全部」
俺は指を折りながら挙げていった。
落ちなかった弁当箱の蓋。昇降口の、弾かれ方が弱くなったこと。掲示板の日付が、一瞬だけ形を見せたこと。四階の歪みが弱まっていること。誰の記憶にもない空席と、動いた椅子。名札だけが並んだ教室。そして、後から増えた五つ目の手順。
書き出そうかとも思った。だが、やめた。この世界では、書いたものが後から書き換わる。俺たちの記録より、二人の記憶を二重に持つほうが、まだ信用できる。声に出して、互いの頭に置く。それが俺たちの記録方式だった。
「……七つ」
彼女が数えた。
「七つ、全部ばらばらに見える。でも」
「ああ。ばらばらの故障なら、方向が揃わない」
俺は窓の外の、動かない青空を見た。
壊れかけの機械は、無作為に壊れる。だがこの七つには、癖がある。俺たちが筋書きの外を歩いた場所で、筋書きのほうが緩む。俺たちが手順の外のことをした後で、手順のほうが書き換わる。まるで、こちらの動きを条件として、向こうが応じているような。
「反応してる、ってこと?」
彼女の声が、少し硬くなった。
「反応してるなら……誰かが、見ているの?」
「見ている、というより」
俺は言葉を測った。
「条件に合わせて、変わっているのかもしれない。誰かの目がガラスの向こうにあるんじゃなく、そういう仕組みが最初から組んである。温度で開く弁みたいに、俺たちの動きで開いたり緩んだりする——そういう造りだ」
「造り」
「ああ。ここは、よく出来すぎている。偶然こうなった空間じゃない。誰かが、何かのために設計した」
そこまで言って、俺は続けた。考えるより先に、分析の語彙が口に乗った。
「檻としては、上等すぎる」
彼女の息が、止まった。
しまった、と思った時には遅かった。檻。名札の並んだ教室の前で、両腕を抱いていた彼女に、俺はいちばん硬い言葉を、分析の道具のつもりで投げていた。
「……すまない。言葉が」
「ううん」
彼女は首を振った。だが、視線は床に落ちたままだった。長い沈黙のあと、彼女はゆっくりと口を開いた。
「檻、なんだと思う。ここ。わたしにとっても。名前も、手順も、この学校も、全部……わたしを入れておく、檻」
「——」
「でもね」
彼女の声が、そこで揺れた。
「変なの。怖いのに、それだけじゃないの。外でばらばらになりかけてたわたしは、ここに入れられて、生徒の形をしてた。形が、あったの。……折れた骨に添える、あれみたいに。添え木。檻がなければ、形を保てなかったものも、あるのかもしれない」
守っていたものと、閉じ込めていたものが、同じだったかもしれない。
その混乱を、彼女はいま、初めて言葉にしていた。俺は否定しなかった。肯定もしなかった。この揺れは、彼女のものだ。外から結論を貼るのは、名札を貼るのと同じことだ。
「どっちなのかは、まだ決めなくていい」
俺は言った。
「檻でもあり、添え木でもあった。両方本当かもしれない。ただ——出るか、残るかを、檻の側に決めさせない。決めるのは君だ。それだけは変えない」
彼女は、しばらく黙っていた。
それから、顔を上げた。
「行きたいところが、ある」
「どこだ」
「名札の教室。……もう一回、見ておきたいの。怖いから見ない、じゃなくて、怖いけど、見ておく」
先に立ったのは、彼女だった。
四階の奥。増えた扉は、まだそこにあった。
教室も、残っていた。三十いくつの机。同じ位置、同じ角度の白い札。前と同じ——ではなかった。
入ってすぐ、彼女が足を止めた。
「増えてる」
滲む名札が、増えていた。
前回は、いちばん奥の一枚だけだった。今は、手前の列にも、中ほどにも、読もうとすると輪郭のほどける札が、三枚、四枚と散っている。読める札のほうが、まだ多い。だが、確実に侵食されている。名前が、札の上で溶けかけている。
「……まだ、見ないで」
彼女は言った。奥の、あの札を見ながら。
「わたしのも、ほかのも。まだ」
「読まない。一枚も」
約束は継続だった。俺は札から目を引き剥がして、教室全体へ視線を回した。
そして、黒板で止まった。
前回、黒板には何もなかった。それは確かだ。使われた痕跡と、使われる予定の気配が、両方ともない部屋だった。
いま、黒板には、線が引かれていた。
白いチョークの、細い線。文字はない。数式でもない。四角がいくつも並び、線で結ばれ、大きな枠がそれを囲っている。四角の並びには秩序があった。等間隔の列。通路のような空白。枠の一辺には、切れ目がひとつ。
落書きではない。線は、どれも迷いなく引かれていた。定規のない黒板で、直線が直線のまま端まで届いている。訓練された手の線だ。この線の引き方には、目的がある。何かの配置を決め、何かの流れを通し、何かを枠の内に収めるための線。
檻、という言葉が、また浮かんだ。
浮かんで、すぐに別の言葉に置き換わった。
設計図だ。
檻は、結果でしかない。先にあるのは、こういう線だ。何を入れ、どう保ち、どこに切れ目を作るかを、誰かが線で決める。閉じ込めるためであれ、形を保たせるためであれ——檻は、設計される。
「ねえ、これ」
彼女が黒板の前に立って、四角の並びを指でなぞっていた。触れないぎりぎりの距離で、列を数えている。
「この並び方……」
俺も数えた。
横に六列。縦に五つと、半端がいくつか。手前に広い空白。枠の切れ目は、右の端。
振り返る。
三十いくつの机が、横に六列。教壇の前に広い空白。入り口の引き戸は、右の端。
黒板の図の一部は、この教室そのものだった。
俺たちは、設計図の中に立っていた。




