第08話:少しだけ書いてないこと
消毒液の匂いは、あの教室を出ると、ついてこなかった。
廊下に出て、扉を閉めて、俺たちは互いに確かめた。匂ったか。匂った。どこの匂いか分かるか。……たぶん。それ以上は、どちらも言葉にしなかった。手順どおり、隠さず共有して、棚に載せる。滲む名札は保留。削りかけの鉛筆も保留。棚は、だいぶ重くなってきた。
「お腹、すいた」
彼女がぽつりと言ったのは、その翌日の昼休みだった。
重くなった棚を、いったん降ろす時間も要る。俺たちは給湯室へ向かった。
棚の奥には、また補充されていた。今度はカップ麺ではなかった。四角い容器が二つ。カップ焼きそば。誰が補充しているのかは、今日も考えないことにした。考えたところで、棚に載せるものが一つ増えるだけだ。
俺は容器の側面の作り方を、声に出して読み上げた。一、湯を注ぐ。二、三分待つ。三、湯切り口からお湯を捨てる。四、ソースをかけてよく混ぜる。以上、四工程。
「……作戦説明みたい」
「癖だ。手順は音読して共有する」
「じゃあ、共有された」
彼女も自分の容器を確かめて、頷いた。四番まで。それが、この昼の全工程だった。
「作り方が、この前のと違う」
容器の側面を眺めて、彼女が言った。
「湯を注ぐのは同じ。三分待つのも同じ。でも……四番。『湯切り口からお湯を捨てる』。……捨てるの?」
「捨てる」
「全部?」
「全部だ」
彼女は容器を持ったまま、しばらく黙った。注いだものを、待って、それから捨てる。その工程が、彼女の中のどこかに引っかかっているらしかった。もったいない、なのか。熱そう、なのか。せっかく注いだのに、なのか。どれでもある顔だった。
「熱いのが、そのまま落ちてくるのよね」
「シンクに落とせば、落ちるのは湯だけだ」
「理屈はわかる。……理屈は」
「俺が先にやってもいいが」
「やる」
即答だった。
「自分の分は、自分でやる」
湯を注ぎ、蓋を閉じ、三分待つ。壁の秒針は、今日も蓋を閉じた瞬間から、正しい速さで回り始めた。三分の中身は、今日は作戦会議ではなく、湯切りの予行演習だった。蓋のここを押さえる。シンクの真上で傾ける。湯気は下からくるから、顔を横に。俺は口頭で伝えるだけにして、手は出さなかった。
三分後。
彼女はシンクの前に立ち、容器を持ち上げた。
慎重に、湯切り口を下へ傾ける。細い湯が、白い湯気を立てて流れ落ちていく。途中で一度、手首が揺れて、湯が少しだけ縁からこぼれた。彼女の肩が跳ねる。それでも、容器は落とさなかった。持ち直して、最後まで、傾けきった。
「……できた」
湯気の向こうで、彼女が言った。声に、小さな達成の色があった。軍の訓練でいえば初歩の初歩にもならない動作だ。だが、彼女にとってこれは、注がれたものを自分の手で捨てて、残したいものだけ残す、初めての工程だったのかもしれない。
ソースをかけて、混ぜる。彼女の混ぜ方は、几帳面だった。容器の隅の麺まで、きっちり均等に。俺のは雑だ。ソースの濃いところと薄いところが残る。それでいいと思っている。
最後に、小袋が一つずつ残った。青のりだ。
俺が封を切ると、彼女は自分の小袋をつまんだまま、動きを止めていた。
「それ、入れないのか」
「青のり?」
「ああ」
「歯に残るでしょう」
「そこか」
「そこよ。あと、全部が同じ味になる気がする」
彼女は小袋をつまんだまま、少し考えて、結局、机の端に置いた。
「入れない」
宣言のように言った。作り方の絵には、緑の粉まで描かれている。その最後の一工程を、彼女は自分の判断で削った。
俺は代わりに、棚の隅にあった小さな瓶へ手を伸ばした。胡椒だ。いつからあるのか知らないが、ある。俺は自分の焼きそばに、それを少しだけ振った。
「それは?」
「胡椒」
「書いてない」
「書いてないな」
「でも、入れるの?」
「少しだけ」
彼女はそれを見て、なぜか真剣な顔で頷いた。
「書いてないことを、少しだけするのね」
「ああ。少しだけなら、味になる」
反抗というほどのものではない。作り方に喧嘩を売っているわけでもない。書かれた手順は、だいたい正しい。正しいまま、最後に自分の分だけ、少し足す。あるいは、少し引く。それだけのことだ。
それだけのことが、この学園では、ずっとできなかった。
ここは書かれた筋書きどおりに回る場所だ。蓋は落ち、パンは売り切れ、同じ会話が同じ抑揚で繰り返される。その中で俺たちはいま、書いていない胡椒を振り、書いてある青のりを入れずにいる。誰の許可も取らずに。
食べた。
麺は少し冷めていて、ソースは濃く、俺の分は胡椒で時々むせた。彼女の分は青のりがないぶん、ソースの色だけの、そっけない見た目をしていた。うまいか、と聞かれれば、まあまあだ、と答える味だった。
「……まあまあ、ね」
彼女も同じ結論だったらしい。
「でも、覚えてると思う。この味」
「ああ」
「胡椒、そんなに違う?」
「試すか」
容器を少しだけ傾けて差し出すと、彼女は一本だけ麺をつまんで、口に運んだ。数秒、考える顔をして。
「……わたしは、要らない」
「そうか」
「でも、あなたのに入ってるのは、いいと思う」
自分には要らないものが、隣にあるのはいい。その言い方が、妙に正確だと思った。
覚えているだろう、と俺も思った。味そのものではない。湯切りの湯気と、机の端に置かれた青のりの小袋と、書いてないな、と言った時の、あの妙に静かな共犯の感じ。丼の底に沈むのは、いつも味以外のものだ。
片付けは、二人でやった。容器をすすぎ、机を拭く。彼女が、捨てる前の容器を何気なく持ち上げて、側面の作り方へ目を落とした。
その手が、止まった。
「……ねえ」
声のトーンで、分かった。俺は彼女の手元を覗き込んだ。
作り方。一、湯を注ぐ。二、三分待つ。三、湯切り口からお湯を捨てる。四、ソースをかけてよく混ぜる。
その下に、五つ目があった。
――お好みで、書いていないものを加えてください。
俺は自分の容器を確かめた。同じ一文が、同じ位置に、印刷の文字で収まっていた。作る前に読んだ時、そんな行はなかった。四番までだった。それは二人とも、声に出して読み上げたから、確かだ。
「……さっき、は」
「なかった」
書いていないことを、少しだけした。
そのはずだった。
なのに世界は、それを最初から手順だったみたいに、容器の側面へ収めていた。




