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第07話:名札のない教室

前も、君を見た。


あの声について、俺たちはその日のうちに、知っていることを全部並べた。手順どおりに。隠さずに。


並べても、大したものは出てこなかった。声は一度きりで、続かなかった。俺に向けられたのか、彼女に向けられたのか、それすら決められない。「君」という言葉は、便利で、残酷だ。誰にでも渡せて、誰のものかは示さない。


「追わない」


俺は言った。


「向こうから来たものだ。こちらから追う材料がない。……ただ、覚えておく」


「うん。覚えておく」


それで、声の件は棚に置いた。置けたわけではない。棚に載せたまま、視界の隅で見張っておく。そういう置き方だった。


四階の見回りは、日課になっていた。


歪みの弱くなった廊下を、端から端まで歩く。扉の数を数える。前と違うものがないかを、二人分の目で確かめる。


その日、数が合わなかった。


「……一つ、多い」


廊下のいちばん奥。突き当たりの壁の手前に、扉があった。昨日まで、そこは壁だったはずだ。俺の頭の中の見取り図に、その扉はない。彼女も、首を横に振った。彼女の知っている四階にも、ない扉だった。


引き戸に、手をかける。鍵はかかっていなかった。


扉は、静かに開いた。


教室だった。


机が並んでいる。黒板がある。窓があり、動かない青空が見える。造りは、ほかの教室と同じだ。


誰も、いなかった。


ただ、机の一つひとつに、名札が置かれていた。


白い札が、机の天板の、同じ位置に、同じ角度で。三十いくつの机の全部に、一枚ずつ。誰も座っていない教室で、名前だけが、整然と出席していた。


俺は入り口で足を止め、まず全体を見た。人の気配はない。埃もない。物音もない。椅子はどれも机に収まり、黒板には何も書かれていない。使われた痕跡と、使われる予定の気配が、両方ともない部屋だった。あるのは名札だけだ。


教室というより、教室の形をした保管庫。それが最初の印象だった。


いくつかの札は、読めた。聞き覚えのある名前もあった。教室で、出席の声に混ざっていた名前。聞き覚えのない名前もあった。そして、いくつかの札は——読めなかった。文字の形はあるのに、視線を置くと輪郭が逃げる。掲示板の日付と、同じ逃げ方だった。


背後で、息の音が変わった。


振り返ると、彼女が戸口の枠に手をついていた。


顔色が、白い。呼吸が浅く、速くなっている。教室に入ろうとした足が、敷居の手前で止まったまま、動かない。


「……並んでる」


掠れた声だった。


「名前だけ、並んでる。人がいないのに。まるで……先に名前があって、あとから人を、あの形に流し込むみたいに」


彼女は自分の両腕を抱いた。あの話を、俺は思い出していた。名前に呼ばれるたび、呼ばれた形に外から押し込められる。はみ出した部分は削ぎ落とされる。彼女が流れ込ませてきた、あの感覚。


この教室は、それを棚に並べて見せているようなものだった。器だけが先にあって、中身を待っている。三十いくつの、空の型。


「読まなくていい」


俺は言った。彼女が何かを言うより、先に。


「俺も読まない。一枚も」


彼女の呼吸が、一段、下りた。


前に、名前を教えてくれと言って、彼女を怯えさせたことがある。あの時の俺は、呼ぶための言葉を探していただけだった。今は、探さないことを先に差し出せる。学んだことが、ようやく手順の形になっていた。


俺は名札から目を外し、教室の中央へ数歩だけ入った。読まない、と決めると、札はただの白い長方形になった。等間隔に並んだ、白い札。それは檻の格子に似ていた。名前で人を留めておくための、静かな檻。


だが、と思う。


崩れる昇降口で、彼女は俺の名を呼んだ。二度。あの名前は、俺をどこにも閉じ込めなかった。むしろ、落ちていく俺を現実の側へ引き戻した。


同じ名前というものが、檻にもなる。あれにも、なる。


違いがどこにあるのか、まだ言葉にできない。俺はその考えを、途中のまま置いた。いま結論を出すべき場所ではない。


「……ねえ」


彼女の声がした。


見ると、彼女は敷居を越えていた。自分の足で、教室に入っていた。浅かった呼吸を、意識して深くしながら、一歩ずつ、机の間を進んでいく。俺は先導しなかった。彼女が向かう先を、半歩後ろから追った。


彼女が止まったのは、いちばん奥の、窓際の机だった。


その机の名札だけが、ほかと違った。


読めないのではない。滲むのだ。文字はある。画数の多い字と、柔らかい字が並んでいる気配まではある。だが、読もうと目の焦点を寄せた瞬間、札の上で墨が水に触れたように、輪郭がほどけて滲む。視線を外すと、また文字の気配に戻る。


彼女は、その札を見つめていた。


長かった。俺は時間を測らなかった。測ってはいけない気がした。彼女の肩は強張っていて、指先は震えていて、それでも、目は逸らされなかった。怖いものから目を離せないのとは、違った。怖いものと、向き合う距離を測っている目だった。


やがて、彼女は言った。


「……まだ、見ないで」


見ないで、ではなかった。


まだ、だった。


「わたしも、まだ見ない。読めないんじゃなくて……読まない。今は」


その一語の差が、どれだけの距離かを、俺は知っている気がした。拒むのではなく、預けておく。いつか開けるかどうかを決める権利を、未来の自分に残しておく。名札の教室の真ん中で、彼女は初めて、名前というものの手前に、自分の意思で立っていた。


「ああ」


俺は頷いた。


「君が見ると決めるまで、この札は保留だ。俺たちの手順に追加しておく」


「……手順、増えてばっかりね」


少しだけ、声が笑っていた。


教室を出る前に、俺は一つだけ確かめた。滲む名札の机。天板ではなく、その下の、物入れの中。名前を読むことにはならない。それだけ確認して、俺は膝を折り、中を覗いた。


鉛筆が、一本、あった。


削りかけだった。木の面が半分だけ削られて、刃の跡が止まっている。誰かが削っている途中で、手を止めたままの形。


木の削り口に、鼻先を寄せたわけでもないのに、匂いが届いた。


削れた鉛筆の、あの匂い。


そして、その奥に、混ざっているものがあった。


薄い、消毒液の匂いだった。


この校舎の、どこにもないはずの匂い。


目を閉じる前に、いつも鼻の奥へ残っていた匂いが、鉛筆の木の匂いの底から、静かに立ちのぼっていた。

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