第12話:二人では足りない
二つ目の容器は、棚の上で、蓋を閉じたまま置かれていた。
俺たちは、それに手を伸ばさなかった。持ち上げもしなかった。俺は膝を折り、棚の高さに目線を合わせて、容器の側面を読んだ。触れずに読む。それが、この世界の物との、俺たちの距離の取り方になっていた。
作り方。一、湯を注ぐ。二、三分待つ。同じ手順。そして、栄養成分の表の下に、同じ一行。
できあがり量:一名分。
「……こっちも、一名分」
彼女が、俺の肩越しに読んで、言った。
「一名分が、二つ」
「ああ」
一名分が二つあっても、二人分とは限らない。
俺は、そう考えていた。二人分というのは、二つ並べることではない。あの三分がそうだった。二つのカップに湯を注いだから二人分だったのではない。同じ秒針を見て、同じ時間を待って、待った先のものを一緒に食べたから、二人分だった。
これは違う。一名分の手順が、ただ二つ、置かれている。線を引かれた二つの枠に、一人ずつ入れ、と言われているような並びだった。
「二人分って」
彼女が、ゆっくりと言った。
「数のことじゃ、ないのね」
「ああ。数なら、揃ってる」
揃っているのに、足りない。その感覚の正体を、俺はまだ言葉にできずにいた。
彼女は、二つ目の容器を見つめていた。蓋の閉じた、湯の注がれていない、白い容器を。
「これ……誰か、待ってるのかな」
ぽつりと、言った。
「わたしたちのために出てきたんじゃなくて。……誰かの分が、ここに、置かれてるだけなのかな」
空席。半分引き出された椅子。解きかけの答案。黒板の反射にだけ座っていた、俯いた輪郭。
俺の中で、それらが一列に並んだ。
誰かの、途中。
この乾いた給湯室に置かれた一名分と、あの教室に残された途中の机は、同じ形をしている。手順の中に置き去りにされて、誰にも待たれていない、一人分。
「決めよう」
俺は立ち上がった。
「この手順は、完了しない。食べない。待たない。……それから、もう一つ」
彼女が、俺を見た。
「置いていかない」
言葉にすると、それは驚くほど単純だった。
俺たちは二人になった。二人で観測して、二人で待って、二人で手順を作って、一人分の手順を断った。だが、この学園には、まだ途中のまま残されている誰かがいる。俺たちだけで手順を閉じて、俺たちだけで答えを出して、二人分だけの三分を守り切ったとして——あの空席は、空席のままだ。
二人だけで閉じれば、俺たちは、俺たちを置き去りにした側と、同じ形になる。
「二人だけで食べない。二人だけで待たない。二人だけで、答えを出さない」
彼女が、俺の言葉を、一つずつ繰り返した。俺たちの記録方式で。二人の頭に、二重に置くために。
それから、少しだけ息を吐いて、言った。
「手順、また増えるね」
「ああ。……五つ目だ」
離れない。隠さない。名前は読まない。まだ見ないものは、まだ見ない。
置いていかない。
その五つ目を、二人で声に出して確かめた——その時だった。
音が、した。
かち。
この部屋の時計ではなかった。壁の秒針は、傾いたまま止まっている。音は、もっと遠くから届いていた。開いたままの引き戸の向こう。乾いた廊下の、さらに向こう。
切れ目の、向こう側からだった。
それきり、続かなかった。
元の校舎のどこかで、秒針が、一度だけ動いた。
「……戻ろう」
彼女が言い、俺は頷いた。
乾いた廊下を戻る。切れ目は、開いた時と同じ幅で、俺たちを待っていた。くぐり抜けると、空気が変わった。湿度でも温度でもない。音を運ぶ余裕のある空気だった。夕方の光が、昇降口の床に長く伸びていた。
教室へ向かう。音は、あれきり鳴らなかった。廊下のどの時計も、まだ十時のまま、迷うように引っかかりながら進んでいる。それでも、あの一度きりの正しい音が聞こえてきた見当だけを頼りに、俺たちは階段を上った。
教室の戸を、開けた。
夕陽が、机の列を染めていた。生徒の姿は、もうない。
窓際の列の、いちばん奥。
空席の椅子が——引き出されていた。
半分ではなかった。誰かが今しがた立ち上がったばかりのように、机から大きく引かれて、少し斜めを向いていた。
俺たちは、ゆっくりと近づいた。
「机、見ていいか」
「……机だけなら」
同じやり取り。同じ作法。俺は膝をつき、机の中を覗いた。
折れた鉛筆。角の丸い消しゴム。二つ折りのプリント。前と同じ配置——ではなかった。
プリントが、少しだけ引き出されていた。解きかけの数学の答案。その余白の端に、前にはなかったものが、あった。
小さな数字が、一つ。
3。
鉛筆の細かい字で、問題とも解答とも関係のない位置に、ぽつんと書かれていた。三問目、でもない。ページ番号でもない。ただの、3。
俺は、それを読み解こうとして、やめた。ただ、鼻の奥に、匂いが届いていた。白く濁った、魚介ともミルクともつかない、あの湯気の匂い。湯気はどこにもないのに、匂いだけが、机の上に薄く残っていた。
三分の、3。
確かめようはない。だが、俺たちが給湯室で数えていた三分を、どこかから見ていた誰かがいるのだとしたら。二人で待つ三分を、いちばん近くで、いちばん遠くから、見ていた誰かが。
「……ねえ」
彼女の声は、囁きだった。視線は、窓へ向いていた。
夕陽を受けた窓ガラスに、教室が映り込んでいる。机の列。引き出された椅子。俺と、彼女。
そして、あの空席のあたりに、影が、一つ。
座ってはいなかった。立っていた。俯いてもいなかった。輪郭だけのそれは、まっすぐに、こちらを——俺たちを、見ていた。
一瞬だった。瞬きの間に、ガラスの中の影は、夕陽の滲みに紛れて消えた。
怖い、と彼女が言うと思った。
違った。
「……待ってるんだ」
彼女は、窓を見たまま言った。
「怒ってるんじゃない。呼んでるんでもない。……待ってるの。わたしたちが、気づくのを。ずっと」
置いていかれた側の言葉だった。待たされ続けた者にしか、分からない待ち方があるのだろう。彼女には、それが読めた。
俺は、空席を見た。
救える、とは思わなかった。正体も、事情も、何一つ分かっていない。軍人としての俺なら、情報不足、判断保留、と処理する場面だ。
それでも、一つだけ、はっきりと分かったことがある。
俺たちだけでは、足りない。
二人でいることを、俺たちはようやく守れるようになった。だが、この教室の時間は、二人分では動かない。あの空席を数に入れない三分は、何度待っても、二人分のままで終わる。
その時。
かち。
音がした。
黒板の上の時計。十時のまま止まっていた文字盤で、秒針が、一目盛りだけ動いた。
正しい速さの、正しい音だった。探していた音は、ここから聞こえていたのだ。俺たちより先に、この教室の針は、動く準備をしていた。
一秒。
それきり、針はまた止まった。学園は正常に戻らない。時間は流れ出さない。ただの、一秒だった。
だが、その一秒は、二人分ではなかった。
引き出された椅子と、答案の端の小さな3と、窓ガラスから消えた影のぶんまで、含まれていた。
その一秒だけ、教室には、三人分の時間があった。




