第04話:変わらない校舎変わった二人
落ちなかった蓋は、弁当箱の横に、行儀よく置かれていた。
持ち主の生徒は、何事もなかったように箸を動かしている。周りの生徒たちも、笑うはずだった口で、別の雑談をしている。誰も、何も、気づいていない。
「……初めて」
彼女が小さく言った。
「あの蓋が落ちないの、初めて見た」
「ああ。俺もだ」
それ以上の言葉は、二人とも足さなかった。理由の候補を並べるには、材料が足りない。分かっているのは一つだけだ。この学園の筋書きは、前と同じではない。
「確かめよう」と俺は言った。「前に俺が一人で見た場所を、順番に」
彼女は頷いて、立ち上がった。
最初は、昇降口だった。
靴箱の並び。ガラスの扉。外の光。何も変わっていないように見える。俺は前と同じように、扉へ手を伸ばした。押した瞬間にどこかの廊下へ戻される。それをもう一度、身体で確かめるつもりだった。
扉を、押す。
戻された。
だが、違った。前は、戻される場所が毎回ばらばらだった。二階、三階、知らない廊下。今回は——昇降口の、すぐ手前だった。三歩下がった位置。扉はまだ視界の中にあり、外の光も見えている。
「弾かれ方が、弱い」
俺は呟いた。締め出すというより、やんわり押し返された感触だった。
「もう一回、やる?」
「いや。回数を重ねる意味は、まだない」
次は、職員室脇の掲示板だった。行事予定の紙。前は、日付を読もうとすると数字がぶれて、確かめられなかった。
今回、数字は——やはり、ぶれた。
ただ、ぶれる直前、一瞬だけ形が見えた気がした。読み取れはしない。それでも、前のような「最初から読ませる気のない霞み方」ではなかった。隠すことに、疲れてきたような霞み方だった。
「読めた?」
「いや。……君は」
「一瞬だけ、数字の形はあった。読めなかったけど」
同じものを、同じように見ている。
その事実に、俺は静かに驚いていた。前にここへ立った時、俺は自分の目を疑うところから始めるしかなかった。数字がぶれて見えるのは、この世界の異常なのか、俺の脳の損傷なのか。判定する相手がいなかった。
今は、隣で同じ異常を見た者がいる。異常は異常のまま、俺の正気だけが、確かめられていく。恐怖が消えたわけではない。ただ、恐怖の置き場所が変わった。
四階へは、彼女が先に立った。
「こっち」
階段を上りきったところで、彼女は迷わず右へ折れた。前に俺が何度も弾かれた経路だった。踊り場を循環させられ、同じ場所を吐き出され続けた、あの階段と廊下。彼女の足は、そのどこにも引っかからなかった。
廊下の歪みは、残っていた。ただ、弱い。扉の間隔のぶれは、目を凝らさなければ分からない程度になっている。
彼女は途中の窓の前で、一度だけ足を止めた。
「前は、ここから見てた」
「……何を」
「あなたが、階段で同じところをぐるぐるしてるの」
言ってから、彼女は少しだけ気まずそうに目を逸らした。助けなかったことを、いま謝るべきか測っている横顔だった。俺は何も求めなかった。あの頃の彼女には、あの頃の距離があった。それだけのことだ。
購買の前を通ったのは、その帰りだった。
昼休みの購買は、いつも同じ筋書きで動く。パンが売り切れ、誰かが騒ぎ、諦めた生徒が教室へ戻る。何度も見た流れだ。
今日は、棚に一つだけ、残っていた。
「あ」
先に見つけたのは、彼女だった。
コロッケパン。包装の角が少し潰れた、売れ残りが一つ。売り切れの筋書きから、こぼれ落ちた一つ。
彼女はそれを手に取って、少しの間、眺めていた。配られたのではないもの。量られていないもの。自分の手で、棚から選んだもの。
「半分こに、しよう」
彼女が言って、俺たちは中庭の隅の段差に並んで座った。包装を破き、彼女が真ん中で割る。断面から、ソースの染みたコロッケが覗いた。大きいほうを、彼女は俺に差し出した。
「そっちが大きい」
「あなたのほうが、身体が大きいでしょ」
反論の余地のない配分だった。
齧ると、衣が湿気ていて、ソースは少し甘すぎた。うまい、と言い切れる味ではなかった。それでも、この学園で口にしたものの中で、初めて、味の記憶が残りそうな気がした。任務中の補給は、栄養と摂取時間だけの行為だ。これは違った。隣で同じものを齧る音がする。それだけで、行為の名前が変わっていた。
「決めておきたいことが、ある」
パンを持ったまま、俺は言った。
「この中での、二人の手順だ。軍の規則じゃない。俺と君の、二人分の」
「聞く」
「一つ。離れない。はぐれたら、探すのに使える手段がここには少なすぎる」
「うん」
「二つ。見たものを隠さない。どちらかが先に異常に気づいたら、すぐもう片方に言う。一人で抱えるのは、なしだ」
「……うん。それ、わたしにも言ってるでしょ」
「両方に言ってる」
彼女は小さく笑って、頷いた。
「三つ目は、わたしから」
彼女はパンの最後の一口を飲み込んで、言った。
「名前に関わるものを見つけても、わたしの許可なく、読まないで」
「分かった」
即答した。名簿も、名札も、書類も。あの空白に何が入るのかを、俺の側から暴くことはしない。それは最初から、俺の役目ではない。
約束は、三つになった。
――この会話を、前にもした気がした。
ふいに、そう思った。
三つ目の約束を、彼女がこの言い方で言うのを、俺はどこかで聞いたことがある。この学園の繰り返しの中にも、外の記憶の中にも、そんな場面はないはずだ。ないはずなのに、彼女の声の高さも、間の取り方も、二度目のように馴染んで聞こえた。
既視感は、数秒で薄れた。
口にしようとした時には、もう輪郭がなかった。何を見たのか。何を思い出しかけたのか。言葉にすれば、かえって別のものに変わってしまいそうだった。
隠さない、と決めたばかりなのに。
俺はその違和感だけを飲み込んで、パンの包装を畳んだ。
午後の授業は、また何コマか飛んだ。
気づけば、教室に夕陽が差していた。残っている生徒は、まばらだった。部活へ行く者、机で突っ伏している者、窓際で喋る数人。
帰り支度をしながら、彼女が、ふと窓のほうで動きを止めた。
「……ねえ」
声が、低かった。
彼女の視線の先。夕陽を受けた窓ガラスに、教室の中が映り込んでいる。机の列。残った生徒たち。俺と、彼女。
俺は、数えた。
教室にいるのは、俺たちを入れて七人。
ガラスの中に、影が八つ、あった。
窓際の列の、いちばん奥。誰も座っていないはずの席のあたりに、座っている形の影が、一つ。
俺は振り返った。
その席には、誰もいなかった。夕陽が、空の椅子を照らしているだけだった。
ガラスへ目を戻す。
影は、七つになっていた。数え直しても、七つ。教室の人数と、過不足なく合っている。
「……見た?」
「見た」
今度は、飲み込まなかった。




