↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
17/36

第05話:三分待つ

翌朝——と呼んでいいのかは、相変わらず分からない区切りの後、俺たちはまず、あの席を見に行った。


窓際の列の、いちばん奥。


空のままだった。机の上には何もなく、椅子はまっすぐ机に収まっている。周りの生徒たちは、その席が視界に入っていないように振る舞っている。避けているのではない。最初から、数に入れていない扱い方だった。


「……見間違いじゃ、なかった」


彼女が小さく言った。


「ああ。影は八つあった。数え間違いでもない」


確認は、それで終わりにした。机の中を検めることも、生徒に尋ねることもしなかった。材料が足りないうちに突けば、藪から出てくるものの正体も分からない。それに——俺たちには先に、決めていたことがあった。


昼休みのチャイムが鳴る。


「今日は、あれにしよう」


彼女が言った。


あれ、というのは、昨日の探索の途中で彼女が見つけたものだった。旧校舎寄りの一角にある給湯室。教員が使うらしい小さな流しと、電気ポットと、棚。その棚の奥に、カップ麺が二つ、並んで置いてあった。誰かの買い置きなのか、この世界がそういう小道具として用意したものなのか。考え出すと切りがないので、考えないことにした。


給湯室は、今日も無人だった。


ポットの湯は、なぜかいつでも沸いている。彼女がカップの包装を剥がし、蓋を半分まで開ける。粉末のスープを入れる手つきが、少し危なっかしい。袋の端を破りすぎて、粉がわずかに指にかかった。


「……やったこと、ないの」


「そうか」


「家では、出てこなかったから。こういうの」


俺は、彼女が外でどういう食卓に座っていたのかを少しだけ想像した。湯を注いで三分待つ食べ物は、たぶん、そこにはなかったのだろう。


俺は自分のカップに湯を注ぎ、彼女のカップにも注いだ。線まで、きっちり。そこだけは軍隊式が役に立った。


蓋を閉じる。


「三分、待つ」


「三分」


彼女は復唱して、給湯室の壁の時計を見上げた。


白い文字盤。教室のものより小ぶりな時計が、そこにもあった。針は十時のまま。それも同じだ。だが、秒針は——動いていた。しかも。


「……ねえ、あれ」


「ああ」


正しい速さだった。


教室の秒針は、引っかかり、迷いながら進む。この給湯室の秒針は、いま、かち、かち、と一定の間隔で目盛りを刻んでいた。まるで、俺たちがカップに蓋をした瞬間から、測る仕事を思い出したように。


俺たちは並んで壁にもたれ、その秒針を見ていた。


待機なら、慣れている。作戦前の待機。輸送中の待機。攻撃開始時刻までの待機。あれは、時間を殺す訓練だった。感覚を薄くして、思考を止めて、命令の来る瞬間だけに神経を残す。待機時間は、空であるほど正しい。


これは、違った。


三分の中身が、空ではない。湯の匂いが少しずつ濃くなる。隣で彼女が、蓋の隙間から覗こうとして、やめる。秒針が回る。その全部が、三分の中身だった。


「わたし、待つの、嫌いだった」


彼女が言った。


「待つ時間って、いつも、誰かの都合だったから。次の検査まで待つ。面会の許可が下りるまで待つ。……順番が来るのを、ただ待つの。あれは、待ってるんじゃなくて、待たされてるのよね」


俺は、前にここで、時間を数えられなくなった日のことを思い出していた。呼吸も、脈も、疲労も、あてにならなくなって、自分の中の時計まで信用を失った。あの時、俺は一人で、壊れた計器だけを抱えて立っていた。


いま、目の前で秒針が回っている。それを二人で見ている。たったそれだけのことが、計器の針が一本戻ってきたような、妙な確かさを持っていた。


秒針が、文字盤の半分を過ぎた。


「これは、違うのか」


「違う」


即答だった。


「だって、待った先にあるものを、わたしが選んだもの。誰の許可も要らない。……待たされるのと、待つのは、違うのね。初めて知った」


俺は、秒針を見たまま頷いた。


「外に出たら」


彼女がふいに言った。


「ちゃんとしたやつ、食べてみたい。お湯を注ぐんじゃなくて、お店で、湯気の上がってるやつ」


「ラーメン屋か」


「そういうの。……変かな。外のこと、ずっと考えないようにしてたのに。三分待ってるだけで、先のことが出てくる」


変ではない、と思った。待つというのは、先があると信じる姿勢のことだ。時間を殺す待機には、先がない。彼女はいま、先の話をした。それが答えのような気がしたが、言葉にはしなかった。代わりに「連れて行く」とだけ言うと、彼女は少し笑って、それきり秒針に目を戻した。


三分が、こんなに長いとは思わなかった。そして、この長さが少しも苦にならないことに、俺は静かに驚いていた。時間を殺す必要がない。隣に、同じものを待っている者がいる。それだけで、待機は待機でなくなっていた。


秒針が三周目を回りきる。


「三分」


俺が言うと、彼女は慎重に蓋を剥がした。湯気が上がる。彼女は熱そうに、細い息を吹きかけてから、最初の一口をすすった。


「……熱い」


「猫舌か」


「そういう言い方、するの?」


「熱いものが苦手な時に言う」


「じゃあ、たぶん、それ」


彼女は納得したような、していないような顔で、二口目をすすった。俺も食べた。安っぽい醤油味だった。麺は少し伸び気味で、スープは濃すぎた。任務中の携行食のほうが、栄養価の設計はよほど正しい。


だが、あれは補給で、これは食事だった。


違いを説明しろと言われたら、うまく言えない。ただ、隣ですする音がして、熱い、と言う声がして、三分を一緒に待った、という事実が丼の底に沈んでいる。それだけで、同じ湯と麺が、別の名前の行為になる。


食べ終えて、カップを流しで軽くすすぎ、俺たちは教室へ戻った。


五時限目の予鈴が鳴る前の、まばらな教室。


俺の足が、扉のところで止まった。


窓際の列の、いちばん奥。


あの空席の椅子が、机から半分、引き出されていた。


朝は、収まっていた。まっすぐ、机の下に。それは確かめてある。俺の目は、そういうものを覚えるようにできている。


誰かが引いたのか。誰かが、座ったのか。


机の上には何もない。埃も、跡も、確かめられるものは何も残っていない。ただ、椅子の角度だけが、朝と違っていた。


彼女も、同じ場所を見ていた。


「……昼休みの間、ね」


「ああ」


俺たちが、三分を測っていた間に。


空席は、空席のまま、そこにあった。だが、もう「誰もいない席」には見えなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。