第05話:三分待つ
翌朝——と呼んでいいのかは、相変わらず分からない区切りの後、俺たちはまず、あの席を見に行った。
窓際の列の、いちばん奥。
空のままだった。机の上には何もなく、椅子はまっすぐ机に収まっている。周りの生徒たちは、その席が視界に入っていないように振る舞っている。避けているのではない。最初から、数に入れていない扱い方だった。
「……見間違いじゃ、なかった」
彼女が小さく言った。
「ああ。影は八つあった。数え間違いでもない」
確認は、それで終わりにした。机の中を検めることも、生徒に尋ねることもしなかった。材料が足りないうちに突けば、藪から出てくるものの正体も分からない。それに——俺たちには先に、決めていたことがあった。
昼休みのチャイムが鳴る。
「今日は、あれにしよう」
彼女が言った。
あれ、というのは、昨日の探索の途中で彼女が見つけたものだった。旧校舎寄りの一角にある給湯室。教員が使うらしい小さな流しと、電気ポットと、棚。その棚の奥に、カップ麺が二つ、並んで置いてあった。誰かの買い置きなのか、この世界がそういう小道具として用意したものなのか。考え出すと切りがないので、考えないことにした。
給湯室は、今日も無人だった。
ポットの湯は、なぜかいつでも沸いている。彼女がカップの包装を剥がし、蓋を半分まで開ける。粉末のスープを入れる手つきが、少し危なっかしい。袋の端を破りすぎて、粉がわずかに指にかかった。
「……やったこと、ないの」
「そうか」
「家では、出てこなかったから。こういうの」
俺は、彼女が外でどういう食卓に座っていたのかを少しだけ想像した。湯を注いで三分待つ食べ物は、たぶん、そこにはなかったのだろう。
俺は自分のカップに湯を注ぎ、彼女のカップにも注いだ。線まで、きっちり。そこだけは軍隊式が役に立った。
蓋を閉じる。
「三分、待つ」
「三分」
彼女は復唱して、給湯室の壁の時計を見上げた。
白い文字盤。教室のものより小ぶりな時計が、そこにもあった。針は十時のまま。それも同じだ。だが、秒針は——動いていた。しかも。
「……ねえ、あれ」
「ああ」
正しい速さだった。
教室の秒針は、引っかかり、迷いながら進む。この給湯室の秒針は、いま、かち、かち、と一定の間隔で目盛りを刻んでいた。まるで、俺たちがカップに蓋をした瞬間から、測る仕事を思い出したように。
俺たちは並んで壁にもたれ、その秒針を見ていた。
待機なら、慣れている。作戦前の待機。輸送中の待機。攻撃開始時刻までの待機。あれは、時間を殺す訓練だった。感覚を薄くして、思考を止めて、命令の来る瞬間だけに神経を残す。待機時間は、空であるほど正しい。
これは、違った。
三分の中身が、空ではない。湯の匂いが少しずつ濃くなる。隣で彼女が、蓋の隙間から覗こうとして、やめる。秒針が回る。その全部が、三分の中身だった。
「わたし、待つの、嫌いだった」
彼女が言った。
「待つ時間って、いつも、誰かの都合だったから。次の検査まで待つ。面会の許可が下りるまで待つ。……順番が来るのを、ただ待つの。あれは、待ってるんじゃなくて、待たされてるのよね」
俺は、前にここで、時間を数えられなくなった日のことを思い出していた。呼吸も、脈も、疲労も、あてにならなくなって、自分の中の時計まで信用を失った。あの時、俺は一人で、壊れた計器だけを抱えて立っていた。
いま、目の前で秒針が回っている。それを二人で見ている。たったそれだけのことが、計器の針が一本戻ってきたような、妙な確かさを持っていた。
秒針が、文字盤の半分を過ぎた。
「これは、違うのか」
「違う」
即答だった。
「だって、待った先にあるものを、わたしが選んだもの。誰の許可も要らない。……待たされるのと、待つのは、違うのね。初めて知った」
俺は、秒針を見たまま頷いた。
「外に出たら」
彼女がふいに言った。
「ちゃんとしたやつ、食べてみたい。お湯を注ぐんじゃなくて、お店で、湯気の上がってるやつ」
「ラーメン屋か」
「そういうの。……変かな。外のこと、ずっと考えないようにしてたのに。三分待ってるだけで、先のことが出てくる」
変ではない、と思った。待つというのは、先があると信じる姿勢のことだ。時間を殺す待機には、先がない。彼女はいま、先の話をした。それが答えのような気がしたが、言葉にはしなかった。代わりに「連れて行く」とだけ言うと、彼女は少し笑って、それきり秒針に目を戻した。
三分が、こんなに長いとは思わなかった。そして、この長さが少しも苦にならないことに、俺は静かに驚いていた。時間を殺す必要がない。隣に、同じものを待っている者がいる。それだけで、待機は待機でなくなっていた。
秒針が三周目を回りきる。
「三分」
俺が言うと、彼女は慎重に蓋を剥がした。湯気が上がる。彼女は熱そうに、細い息を吹きかけてから、最初の一口をすすった。
「……熱い」
「猫舌か」
「そういう言い方、するの?」
「熱いものが苦手な時に言う」
「じゃあ、たぶん、それ」
彼女は納得したような、していないような顔で、二口目をすすった。俺も食べた。安っぽい醤油味だった。麺は少し伸び気味で、スープは濃すぎた。任務中の携行食のほうが、栄養価の設計はよほど正しい。
だが、あれは補給で、これは食事だった。
違いを説明しろと言われたら、うまく言えない。ただ、隣ですする音がして、熱い、と言う声がして、三分を一緒に待った、という事実が丼の底に沈んでいる。それだけで、同じ湯と麺が、別の名前の行為になる。
食べ終えて、カップを流しで軽くすすぎ、俺たちは教室へ戻った。
五時限目の予鈴が鳴る前の、まばらな教室。
俺の足が、扉のところで止まった。
窓際の列の、いちばん奥。
あの空席の椅子が、机から半分、引き出されていた。
朝は、収まっていた。まっすぐ、机の下に。それは確かめてある。俺の目は、そういうものを覚えるようにできている。
誰かが引いたのか。誰かが、座ったのか。
机の上には何もない。埃も、跡も、確かめられるものは何も残っていない。ただ、椅子の角度だけが、朝と違っていた。
彼女も、同じ場所を見ていた。
「……昼休みの間、ね」
「ああ」
俺たちが、三分を測っていた間に。
空席は、空席のまま、そこにあった。だが、もう「誰もいない席」には見えなかった。




