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第02話:二人目の署名

車椅子に移れるようになったのは、面会から四日後だった。


自分の腕で車輪を回すことは、まだ許可されていない。押されるまま検査室を巡り、押されるまま病室へ戻る。それでも、視界が水平になっただけで、施設の見え方は変わった。寝台の上から見ていた白い天井は、廊下と扉と、すれ違う人間の顔になった。


その日、検査室の前の廊下で、俺は二つの声を聞いた。


「作戦は終了した。接続は切断する。それだけの話だ」


指揮官の声だった。抑えてはいるが、断ち切る言い方だった。


「外部からの切断は推奨できません」


主任の声は、静かだった。


「突入前の条件を思い出してください。強制切断は生命維持上きわめて危険。あれは接続中だけの話ではない。開いたものが残っている以上、同じです」


「では、どうする」


「閉じる手順は、内側にしかありません。開いたのは彼らです。閉じられるのも、彼らだけだ」


半分開いた扉の向こうで、指揮官が黙る気配がした。


「……観測を続けたいだけではないのか」


「記録は正確です。私の希望とは関係なく」


俺を押していた療法士が、咳払いをして車椅子を進めた。声は扉の向こうに置き去りになった。


内側から、閉じる。


つまり、戻る、ということだ。あの学園に。


俺は自分の右手を見た。拳は、もう握れる。だが指先は、まだ細かく震える。この手で、もう一度あそこへ行くのか。それとも、行かずに済む道を探すのか。


答えを出す前に、二度目の面会が来た。


今度は処置室の隣の部屋で、彼女の食事の時間と重ねられていた。摂食観察を兼ねる、と記録係は言った。食事さえ、面会さえ、ここではすべて観測の項目に束ねられていく。


彼女はトレイを前に、しばらく器を眺めていた。


それから、小鉢を一つ、トレイの端へ押しやった。


「これは、要らない」


誰に言うでもない声だった。記録係のペンが動く。彼女は構わず、別の器を手前へ引き寄せた。


「こっちは、食べる」


スプーンが動いた。一口。二口。前に見た、義務のような一口とは違った。量は多くない。だが、選んでいた。配られたものの中からでも、選ぶことはできる。そう確かめるような手つきだった。


押しやられた小鉢を、記録係が数字にしていく。摂取率、残食項目。彼女の小さな選択は、ここでは逸脱の記録になる。それでも彼女は、端へ寄せた小鉢を戻さなかった。


俺が見ていることに気づいて、彼女は少しだけ顔を上げた。


「聞いたんでしょう。閉じる手順のこと」


「……ああ」


「わたし、戻る」


まっすぐな声だった。


俺は、すぐには答えられなかった。反対の言葉なら、いくらでも並んだ。あの学園は崩れかけていた。君の身体はまだ戻りきっていない。閉じる手順が本当にあるのかも分からない。危険の見積もりなら、軍人の俺のほうが正確にできる。


そして、その見積もりの全部が、結局は同じ一つの言葉に潰れていく。行かせたくない。理屈の形をした、ただの、それだった。


だが、口から出たのは、一つだけだった。


「なぜだ」


「置いてきたものが、あるの」


彼女はスプーンを置いた。


「何を、とは、まだ言えない。言葉にすると、違うものになりそうだから。……でも、あそこに置いてきた。外に出るって決めた時、持って出られなかったもの」


俺は、崩れる昇降口を思い出した。光は一人分で、彼女は自分の足で一歩を踏んだ。あの一歩に、置いていくという代価が含まれていたのだとしたら。


「危険だ」


「知ってる」


「止めても、行くのか」


「あなた、言ったよね」


彼女は俺を見た。


「出るか、残るか。決めるのは君だ。俺は命令しない、って。……戻るか、戻らないかも、同じでしょう」


俺の言葉だった。


返す刀で使われて、俺は黙るしかなかった。彼女を守りたいという気持ちと、彼女の決定を奪えないという理屈が、同じ場所から出ていることに、今さら気づかされた。


止める資格は、俺にはない。


なら、俺にできることは一つだけだった。


「……一人では行かせない」


彼女は、少しだけ目を見開いた。それから、小さく頷いた。ありがとう、とは言わなかった。言わないことが、正しい気がした。これは彼女のための同行ではない。俺が、俺の意思で決めたことだ。


その夜、俺は消灯後の時計を見なかった。


見れば、また何かが戻る気がした。戻るのは秒針だけでいい。俺は目を閉じて、方角だけを確かめた。ガラスの向こう。彼女のいる方角。そこだけは、今夜も狂っていなかった。


書類は、翌日に用意された。


再接続に関する同意書。危険性の列挙。免責の条項。前に突入した時には、見た覚えのない紙だった。あの時の俺は、渡された書類に流れるまま署名した。拒否権があったのかは、知らない。


今回は、違った。


「拒否できます」


主任は、署名欄を示しながら言った。


「拒否した場合、外部切断を試みます。成功率は記録上、推奨できる数字ではない。それでも、拒否はできます」


脅しには聞こえなかった。ただの数字の報告に聞こえた。この男は、たぶんどちらでも記録するのだ。成功も、失敗も、等しく。


俺はペンを取った。


指先が、震えた。


左手を添えて、押さえ込んだ。震えごと、紙に押しつけるように、俺は自分の名を書いた。番号ではなく、名を。誰に呼ばれなくても、俺のものである名を。書き終えた線は歪んでいたが、消さなかった。この歪みごと、俺の署名だった。


次は、彼女だった。


車椅子のまま机に着き、ペンを持つ。


署名欄の上で、ペン先が止まった。


長い停止だった。書こうとして、書けない。番号を書く気配もなかった。対象、と書く気配も。彼女はただ、空白の上で指を止めていた。あの名簿の、最初から何も書かれていなかった欄と、同じ形の空白の上で。


誰も、急かさなかった。


やがて主任が、静かに言った。


「空欄のまま受理します。識別は記録側で行う。同意の確認には、支障ありません」


彼女はペンを置いた。ほっとしたようにも、悔しそうにも見えた。どちらでもあるのだろう、と俺は思った。書けなかったのではない。まだ、書かないのだ。そう思うことにした。


「観測条件は追って通知します。前回と同一ではない。接続が既に開いているためです」


主任はそれだけ言って、二枚の書類を重ね、端末に向き直った。


打鍵の音が、短く続いた。


車椅子を回されながら、俺の視界の端に、その画面がかすめた。


一行だけ、読めた。


――二例目、照合可。


何と、何を。


問える位置に、俺はもういなかった。

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