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第01話:まだそこにいるの

明るい。


目を覚ますたび、最初に来るのはその一語だった。


白い天井。消えたままの無影灯の円。窓から入る、管理された明るさの光。ぴ、ぴ、ぴ、と規則正しい電子音。音と音の間隔は、もう広がっていなかった。


現実だ。


そう確かめる作業から、俺の一日は始まる。


「十七号。本日は指の屈伸から」


白衣の療法士が、事務的に言った。


十七号。


この施設で、俺の呼び名は変わっていない。作戦は終わり、彼女は帰還し、俺は回収された。それでも書類の上の俺は被験者のままで、誰もそれを改める気配はなかった。


俺は右手の指を折った。人差し指、中指。三本目で、腱の奥が鈍く痛む。それでも動く。一週間前は一センチだった。今は、拳の形まであと少しだ。


療法士は可動域と所要時間を端末に打ち込み、次の項目へ移る。回復もまた、ここでは記録の一項目だった。


「首、いけそうですか」


「ああ」


枕から頭を浮かせ、ゆっくり左へ向ける。


視線の先に、ガラスがあった。


仕切りの向こうは、別の病室になっている。ベッドがひとつ。枕元で、緑のランプが灯っている。俺のものと同じ、安定の色。


彼女は、そこにいる。


見なくても分かる。これは目の情報ではない。胸の奥のどこかが、方位磁針みたいに、いつもそちらを向いている。学園の廊下で覚えた感覚は、現実に戻っても消えなかった。夜中に目が覚めても、俺は自分がどちらを向いて寝ているかより先に、彼女の方角が分かる。


報告はしていない。


する言葉を、まだ持っていない。


その日、ガラスの向こうで、彼女が上体を起こしていた。


初めて見る姿勢だった。細い背中に枕をあてがわれ、白い病衣で、膝の上の何かを見下ろしている。配膳台だ。トレイの上に、小さな器がいくつも並んでいる。


彼女はスプーンを持ったまま、長いこと動かなかった。


やがて一口だけ運んで、スプーンを置いた。


白衣が近づき、トレイを確かめ、端末に何かを打ち込む。摂取量、という単語が、ガラス越しの口の形で読めた。減らない器が、そのまま下げられていく。


選んだ食事ではない。


量られ、配られ、記録される食事だ。あの学園で、彼女は「普通の生徒」の昼休みの中にいた。ここでは食事さえ、観測の項目になっている。


彼女が、ふと顔を上げた。


ガラス越しに、目が合った。


現実で、初めて。


四階の廊下でも、空き教室でも、崩れる昇降口でも、俺たちは何度も目を合わせた。だが、この身体で、この濁った蛍光灯の下で、彼女の黒い瞳とまっすぐ合うのは、初めてだった。


彼女は、驚かなかった。


またか、というあの顔でもなかった。ただ、確かめるように、少しだけ長く、こちらを見た。


白衣がブラインドを下ろした。


その間に一度、検査のため廊下を移動した。ストレッチャーの上から見上げる天井は、どこまでも同じ白だった。すれ違う白衣たちの会話が、切れ切れに耳へ入ってくる。


「――保護対象の摂取量、今日も基準以下です」


「対象の心理評価は、次週に――」


保護対象。対象。


外へ出ても、彼女の呼び名は変わっていなかった。俺が十七号のままであるように。俺たちはまだ、番号と役割の側に置かれている。あの学園の、外でも。


面会が許可されたのは、その三日後だった。


「接触時間は十分。会話は記録されます」


管制官が言った。ヘッドセットは着けていない。生の声は、通信越しより少しだけ柔らかかった。彼女は車椅子の俺を面会室まで押しながら、それ以上のことは何も言わなかった。ただ、扉の前で一度だけ、頑張って、と聞こえない音量で言った気がした。


面会室は、白いテーブルと椅子が二脚あるだけの部屋だった。壁際に記録係がひとり。天井の隅にカメラ。ガラスの向こうに、白衣がひとり立っている。端末を開いたまま、こちらを見ている。あの主任だった。何も言わない。ただ、記録している。


彼女が、車椅子で運ばれてきた。


テーブルを挟んで、俺たちは向かい合った。


十分。何を話すべきか、俺は準備してこなかった。任務の報告なら型がある。だが、これは任務ではない。


「……食事」


先に口を開いたのは、俺だった。


「残してるだろう」


「見てたの」


「見えた」


彼女の口元が、ほんのわずかに緩んだ。笑ったと呼ぶには小さすぎる動きだった。それでも、この白い部屋で最初に生まれた、記録のしようがない何かだった。


それから、彼女は視線を落とした。


「味がしないわけじゃないの。ただ……決められた通りに食べてると、また、あの上書きが始まる気がして」


記録係のペンが動く音がした。彼女はそこで言葉を切り、口をつぐんだ。この部屋では、言葉はぜんぶ量られる。


沈黙が続いた。


悪い沈黙ではなかった。学園の空き教室の、あの沈黙に似ていた。


残り時間を告げるブザーが鳴る、その直前だった。


彼女がテーブルの上で、指先だけをわずかにこちらへ動かした。触れはしない。記録される距離の、ぎりぎり外側で。


そして、唇がほとんど動かない声で、言った。


「……まだ、そこにいるの?」


俺の中の、学園に。


答えるより先に、耳の奥で、チャイムが鳴った。


きんこんかんこん、と。四つの音を、律儀に最後まで。


この施設に、鳴らすものなど何もないのに。


俺は頷きも、否定もしなかった。ただ、彼女には伝わったのだと思う。彼女の目が、ほんの少しだけ、あの空き教室の色になった。


「時間です」


記録係が立ち上がった。


彼女は車椅子ごと向きを変えられ、扉の向こうへ運ばれていった。振り返らなかった。振り返らないことが、次がある、という意味に思えた。


夜。


消灯後の病室で、俺は天井を見ていた。


緑のランプ。モニタの光。ぴ、ぴ、ぴ、と俺の音だけが鳴っている。胸の奥の磁針は、今夜も同じ方角を向いている。


鼻の奥に、ふっと、削れた鉛筆の匂いがした。


消毒液の匂いに混じって、一瞬だけ。気のせいだ、と言い聞かせるのにも、そろそろ慣れてきた。


俺は目を閉じかけて、壁の時計を見た。


白い文字盤。この部屋の時計は、正しく動く。秒針が、かち、かち、と規則正しく進んでいく。それを確かめるのが、寝る前の癖になっていた。


秒針が、十二を越えた。


かち。


――逆に、一目盛り、戻った。


次の瞬間には、何事もなかったように、また前へ進んでいる。かち、かち、と。正しい速さで。正しい向きで。


俺は、まばたきをしなかった。


見間違いだと言うために必要なまばたきを、しなかった。


方角の分かる胸の奥が、静かに冷えていた。

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