第12話:帰還不能
ああ。
そう答えたはずだった。
だが、声になったのかは分からない。喉が音を作る前に、光が来た。
白ではなかった。白より薄い、何もない色。彼女の手の力だけが、その中で唯一の質量だった。細い指。折れそうな手首。それが俺の腕を、現実の側へ引いていた。
鐘が鳴った。
記憶の底の鐘ではない。もっと近く、もっと硬い、規則正しい音——
ぴ、ぴ、ぴ。
目を開けた。
いや、開けられたのかも分からない。視界は濁り、天井らしきものに緑のランプが滲んでいた。赤ではない。緑。それが違いだと気づくまでに、しばらくかかった。
口元が冷たい。
ゴムの匂い。酸素マスク。吐いた息が内側で湿って、頬に戻ってくる。
背中の下で、シーツが湿っていた。汗なのか、もっと別のものなのか。指を動かそうとする。右手の人差し指が、一センチだけ動いた。
動いた。
この身体で。
現実の、俺の身体で。
「バイタル、安定域に入ります」
女の声。管制官の声だった。マイク越しではなく、生の声。すぐ近くで、彼女はヘッドセットを両手で押さえたまま、崩れるように息を吐いていた。事務的な平坦さは、もうどこにもなかった。
金属トレイの上で、誰かが器具を置く音がした。小さく、かちゃ、と。
その音のあとで、また、ぴ、ぴ、ぴ。
俺の心電図の音だ。
分かっている。
分かっているのに——その間隔が、昼休みの終わりに似ていた。三十人の生徒が一斉に席へ戻る、あの、チャイムの余韻の刻み方に。
俺は目を閉じた。
開けた。
天井は天井のままだった。緑のランプ。無影灯の消えた円。それでいい。それが正しい。
『十七号、応答確認』
スピーカーから、指揮官の声がした。
俺は返事をしなかった。
できなかったのではない。指はもう二センチ動く。まばたきで応答する訓練も受けている。
しなかった。
その呼び方に返事をする身体は、まだ向こうに置いてきた気がした。
「意識レベル、回復傾向。応答は——時間の問題かと」
管制官が、代わりに答えた。ヘッドセットを押さえたままの、少し掠れた声で。
ガラスの向こうで、別のベッドのランプが点いた。
緑。
俺のと同じ、安定の色。
首は動かなかった。だから見えたのはランプだけだ。それでも、胸の奥のどこかが、正確にそちらの方角を向いていた。方角だけが、ずっと分かっている。あの学園の廊下で覚えた感覚のまま。
帰ったのか。
俺は自分に訊いた。
答える前に、視界の隅で、白衣が動いた。
研究主任だった。
彼はガラスの向こうのランプを、一度だけ見た。それから俺を見た。何も言わなかった。
部屋の人間たちが動き始めていた。器具を片付ける音。誰かが記録用の端末を閉じる、ぱたんという音。もう一つ、ぱたん。作戦は終わった。そういう音が、部屋のあちこちで鳴っていた。
主任の端末だけが、開いたままだった。
彼は壁際の椅子に座り、誰ももう見ていない画面に指を置いて、何かを打ち続けていた。急いでもいない。興奮もしていない。ただ、終わっていない人間の手つきだった。
「主任、記録は明朝で——」
「先にやる」
それだけだった。声は濁っていなかった。この部屋で、いちばん静かな声だった。
俺はまた目を閉じた。
まぶたの裏に、黒板の上の時計が残っていた。針は十時。残像だ、と自分に言う。網膜に焼き付いた、ただの残像だ。
マスクの内側で、俺は小さく息を吸った。
ゴムの匂いに混じって、一瞬だけ、削れた鉛筆の匂いがした。
気のせいだ。
気のせいで、いい。
どれくらい経ったのか、部屋の照明が落とされた。夜間帯の暗さ。緑のランプと、モニタの光だけが残る。管制官も、指揮官も、白衣たちも出ていった。主任の端末の音だけが、しばらく続いて、やがてそれも止んだ。
静かだった。
ぴ、ぴ、ぴ。
俺の音だけが、暗い部屋で鳴っている。
任務は完了した。
対象は——違う。
彼女は、自分の足で外へ出た。俺は最後まで押さなかった。それだけが、この作戦で俺が確かにやったことだ。番号も、記録も、観測も、全部向こう側のものだ。だがあの一歩だけは、誰のデータにもならない。
彼女は俺を、亘と呼んだ。
二度。
一度目は確かめるように。二度目は、引き戻すために。
この施設の誰も、俺をそう呼ばない。明日からも呼ばないだろう。ここでの俺は十七号で、被験者で、回収された何かだ。
それでも。
呼ばれた名前のほうが、この心電図の音より、確かな気がした。
眠りが来る。
薬か、疲労か、ただの限界か。視界の縁から、暗さが染みてくる。
その暗さの、いちばん遠くで。
チャイムが鳴った。
きんこんかんこん、と。四つの音を、律儀に最後まで。
ここに、学校などないはずなのに。
俺は目を開けなかった。
開けたら、消えてしまう気がした。
どちらが、とは、考えないことにした。




