第11話:1000秒の崩壊
チャイムが、割れた。
いつもの高さで鳴り始めた音が、途中でひしゃげ、金属を引き摺る音に変わる。その裏に、別の音が混じっていた。
ぴ、ぴ、ぴ、ぴ。
速い。速すぎる心電図の音。
あれは、俺の音だ。
廊下の窓が、順番に白く飛んでいく。校庭の空中で止まっていたボールが、音もなく崩れて砂になった。教室から生徒たちの声がする。全員が、同じ言葉を、同じ高さで繰り返している。
「行こう」
彼女の手を引いて、走った。
左腕が焼けるように痛む。袖の下の赤い筋が、肘の先まで伸びているのが、見なくても分かった。
『十七号!強制切断を要請、繰り返す、強制切断を――』
管制官の声が、初めて割れていた。事務的な平坦さが剥がれて、その下から、若い女の焦りが剥き出しになっている。
『却下する。継続。ここで切れば全て無駄になる』
主任の声は、まだ濁らない。この崩れていく世界で、その冷静さだけが場違いに滑らかだった。
どちらの声も、もう俺の指揮系統ではない。
俺の任務は、俺が定義した。
君を、帰す。
階段を降りる。四階の歪んだ廊下が、背後で天井ごと折れ曲がる。降りているはずなのに、窓の外の校庭が近づいてこない。
「こっち」
彼女が先に走った。
初めてだった。彼女が俺の前を走るのは。
昇降口。
そこだけが、静かだった。
開いた扉の向こうに、光がある。白すぎて、外の景色は見えない。ただ、あれが出口であることは、理屈ではなく分かった。
彼女が立ち止まる。
光の手前、一歩のところで。
「……ここから先、あなたは押せないんでしょう」
「ああ」
嘘をつく場面ではなかった。
「掴んで放り込むことは、たぶんできる。でも、それじゃ君は戻らない。身体だけが戻る」
彼女は光を見ていた。
「外はね、私を番号で待ってるの。高官の娘。保護対象。……ここなら、私は普通の生徒でいられた」
「知ってる」
「なのに、出ろって言うの」
「言わない」
彼女が振り向いた。
「出るか、残るか。決めるのは君だ。俺は命令しない」
背後で、校舎が沈む音がした。時間がない。それでも、ここだけは急がせてはいけない。俺の残り時間と引き換えにしてでも。
彼女は、長いあいだ黙っていた。
やがて、言った。
「名前」
「……ああ」
「外に出ると決めたら、教えてくれるって言った」
俺は頷いた。
「亘だ」
番号でも、階級でも、呼称でもない、ただの名前。この学園に来てから、初めて口にした。
彼女は、その名前を一度、唇の中で転がした。
そして、呼んだ。
「亘。……私、外に出る」
その瞬間。
世界中の音が、一拍だけ止まった。
止まって――崩壊が、倍速になった。
空が天井のように割れる。割れ目の向こうは黒ではなく、白い部屋だった。無影灯。並んだ機材。ガラスの向こうの人影。現実が、空の裏側から透けている。
『バイタル臨界!酸素飽和度、落ちます――マスク!』
誰かが叫んでいる。俺の顔に、現実の側で、酸素マスクが押し付けられる感触があった。仮想の身体には何もないのに、口元だけが冷たい。
「行け!」
彼女の背を、押さなかった。
彼女は自分の足で、一歩を踏んだ。
光が彼女を包む。
その瞬間、俺の足元が消えた。
昇降口の床が、砂になって落ちていく。身体が浮く。光が遠ざかる。ああ、と他人事のように思った。出口は、一人分だったのか。
構わない、とも思った。
任務は、完了だ。
落ちていく俺の腕を――
細い手が、掴んだ。
光の中から半身を戻して、彼女が俺の手首を掴んでいた。
「亘」
二度目に呼ばれた名前は、命令のように響いた。
「あなたも、帰って」




