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第10話:一〇〇〇の意味

次は、彼女を見捨てろ。


その声は、耳の奥に残っていた。


空き教室で膝をついたまま、俺は自分の呼吸を数えていた。数えないと、呼吸の仕方を忘れそうだった。


俺の声だった。それは間違いない。


だが、言った覚えがない。


覚えがないことと、言っていないことは、同じではない。


この学園に来てから、俺はそれを何度も思い知らされている。五時限目の記憶が飛ぶ。同じ昼休みが繰り返される。ノートに、書いた覚えのない自分の字がある。


――次は。


次、という言葉には、前があるはずだ。


「顔色、ひどい」


彼女が屈み込んで、俺の顔を覗いていた。


「……前に、俺と会ったことがあるか。この学園で。今回より、前に」


彼女の目が、わずかに揺れた。


答えは返ってこなかった。代わりに、彼女は窓の外へ視線を逃がした。空中で止まったままのボールが、まだそこにある。


「覚えてない」


彼女は言った。


「覚えてないの。本当に。でも――あなたが初めて教室で振り返った時、私、驚かなかった」


驚かなかった。


初対面の男が、教室の一番後ろの自分を迷わず見つけたのに。


「またか、って思った。……どうして『また』なのか、自分でも分からないまま」


俺は床に手をついて、立ち上がった。


仮説を立てる。軍人の仕事だ。感傷ではなく、仮説。


この作戦には、前がある。


俺は、前にもここへ来ている。


そして前の俺は――彼女を見捨てて、帰った。あるいは、帰れなかった。


『……号、聞こえるか』


ノイズの向こうから、管制官の声が滲んだ。


『バイタル低下が……作戦時間、残り……』


「残りいくつだ」


声に出して訊いた。教室に、俺の声だけが響く。


『……九〇〇を切った。繰り返す、九〇〇を――』


九〇〇。


突入時、一〇〇〇。


俺は黒板の上の時計を見た。針は十時のまま。秒針は止まったまま。この学園の時間は最初から動いていない。


動いているのは、俺の残量だけだ。


作戦時間とは、作戦に与えられた時間ではない。


俺が保つ時間だ。


脳か、接続か、あるいはもっと別の何かか。どれかは分からない。だが一〇〇〇という数字は、任務の締め切りではなく、俺の値札だった。


『十七号。応答は不要だ』


研究主任の声が、割り込んだ。


管制官の声は砂に埋もれるのに、この男の声だけが、まっすぐ届く。それ自体が、もう答えのようなものだった。


『チャンネルは維持されている。素晴らしい数値だ。対象との距離を保て。近すぎても遠すぎても、記録が乱れる』


「対象の確保はどうした」


『確保は――』


半秒の間。


『――予定通りだ。時間内に誘導しろ』


嘘だな、と思った。


尋問の訓練で覚えた間だった。答えを持っていない人間の間ではない。答えを言わないと決めている人間の間だ。


救出は、看板だ。


この作戦の本体は、いま俺と彼女の間に張られている、この見えない線のほうだ。彼らはそれを観測し、記録するために、俺をここへ沈めた。一〇〇〇という残量ごと。


「ねえ」


彼女の声がした。


振り向くと、彼女は少し離れた机の縁に、指先だけで触れていた。


「今の、聞こえてた。全部じゃないけど……あなたの中で、聞こえてた」


隠せない。この線は、そういう線だ。


「あなたは、私を助けに来た人」


彼女は言葉を切って、自分の指先を見た。


「――で、同時に、使われてる人。私と、同じ」


同じ。


高官の娘。救出対象。観測点。


被験者十七号。突入要員。記録素材。


呼び方は違っても、扱いは同じだった。俺たちは二人とも、番号と役割の側に置かれている。


「怒らないの」


「怒っている」


自分でも意外なほど、静かな声が出た。


「ただ、怒鳴る相手がここにいない」


彼女が、ほんの少しだけ笑った。この学園に来て、初めて見る表情だった。


俺は決めた。


命令を破るのではない。破れば強制切断が来る。残り九〇〇を切った身体で、派手な反乱をする余裕はない。


だから、静かに定義を書き換える。


対象を確保し、回収する任務ではない。


君を、帰す任務だ。


確保は、掴んで引きずることだ。帰すは、そうじゃない。出口まで並んで歩いて、最後の一歩を、本人が踏むことだ。


「……いま、何か決めたでしょう」


「ああ」


「何を決めたか、聞かないでおく」


彼女は机から指を離した。


「その代わり、一つだけ」


「なんだ」


「あなたの名前。番号じゃないほう」


俺は一瞬、口を開きかけた。


言えなかった。名前は、ここでは軽く扱っていいものではない。それだけは、この学園に来てから身体で覚えた数少ない確かなことだ。


「次に会えたら、言う」


「次って、いつ」


「君が、外に出ると決めた時だ」


彼女は黙った。


拒絶の沈黙ではなかった。何かを、初めて自分の重さで量っている沈黙だった。


チャイムが鳴った。


昼休みの終わりを告げる、いつものチャイム。何百回聞いたか分からない、同じ高さの音。


俺はもう一度、黒板の上の時計を見た。


秒針が。


一目盛りだけ、動いた。


かち、と。


この学園に来て、初めて聞く音だった。


針はまた止まっている。見間違いかもしれない。だが俺の背筋の冷えは、見間違いを信じていなかった。


残り時間が減っていく世界で、止まっていたものが動き始めている。


それがいい報せなのか、悪い報せなのか、まだ分からない。


『十七号』


研究主任の声がした。


初めて、その声に、かすかなノイズが混じっていた。


『いま、何をした』

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