第三章:不具合報告(クレーム)は受け付けません。
「……ミリアが、星になった……?」
王都・第一王子の執務室。カイル殿下は、目の前の側近から差し出された報告書を凝視したまま、魂が抜けたような声を漏らしていた。
あの夜会の日、秒間六十回転の超高速スピンを始めたヒロイン・ミリアは、誰の手にも負えない暴風となって王宮の天井をぶち抜き、そのまま天空の彼方へと消え去った。
教会が総力を挙げて探索魔法を放ったところ、彼女は現在、世界の遥か上空(成層圏)で未だに高速回転を維持したまま、規則正しく円軌道を描いて世界を周回しているという。
「ど、どういうことだ! 意味が分からん! 聖女だぞ!? なぜ自転しながら衛星のようになっている!」
「わ、分かりかねます……。ただ、夜空を見上げますと、時折ミリア様のドレスが月明かりを反射して、一等星のように輝いておいでです……」
「ふざけるな! 早く下ろせ!」
「それが、不用意に接近した飛行竜が、彼女の回転が巻き起こす謎の斥力によって、触れた瞬間に遥か彼方の地平線まで弾き飛ばされまして……。現在の彼女は『絶対不可侵の回転体』と化しております」
カイルは机を激しく叩いた。
婚約破棄を突きつけ、最高のハッピーエンディングを迎えるはずだった。それなのに、すべてがあの日から狂っている。
「……ルクレツィアだ。あの悪女が、去り際に何か邪悪な魔術を仕込んだに違いない! 奴を連れ戻すぞ! 辺境へ騎士団を派遣しろ!」
カイルの怒号が響き渡る。
しかし、彼らはまだ気づいていなかった。そのルクレツィアが今、王都の経済を文字通り「根底からハッキング」し始めていることに。
◇
一方、辺境のディートリヒ領。
私は新しく開いたコンソール画面を眺めながら、思わずフフッと不敵な笑みを漏らしていた。
「お嬢様、また怪しげな笑みを浮かべて……。あ、仕上がりましたよ。例の『布』です」
侍女のアネットが、一枚の美しいドレス用の白生地を持ってきた。
それは、先日奈落へ落としたレイドボスが落とした【魔王の絹糸】。通常ならゲーム終盤の超難関ダンジョンでしか手に入らない、最高級のバグ素材だ。
「ありがとう、アネット。これで王都の市場に流す『商品』の準備は完璧ね」
私はその布地に手をかざし、管理者権限のコードを流し込む。
施すのは、前世でプレイヤーを阿鼻叫喚に陥れた、あの最凶のバグ——
[Input] /attach_property --target=Demon_Silk_Cloth --effect=Duplication_Glitch
「よし。アイテム増殖バグ(無限増殖)、セット完了」
この布は、一度ハサミを入れて切り離すと、切り離された双方が「オリジナル」として認識され、元の大きさに再生する。つまり、一枚の布から無限に最高級の絹織物を生産できるのだ。
私はこれを、王都の商人を仲介して、ルクレツィアを嫌って追放に賛成した貴族令嬢たちへ、格安の「限定最高級ドレス」として売り捌いた。
効果はてきめんだった。
一週間後、王都の高級社交界は大混乱に陥っていた。
無限増殖のプログラミングは、ドレスの形に縫製された後も止まらなかったのだ。
「お、お父様! 助けて! クローゼットが閉まらないの!」
「バカな、我が家の衣装部屋からドレスが溢れ出して……ギャーッ! 廊下がドレスで埋まる!」
令嬢たちが購入したドレスは、クローゼットの中で勝手にコピーを生成し、屋敷を埋め尽くし、ついには窓を突き破って王都の街道へと溢れ出した。
しかも、最高級の【魔王の絹糸】で作られたドレスは、並の剣や魔法では傷一つつかない「無敵属性」を持っている。処分しようにも、燃やすことも切り裂くこともできない。
王都の物価は暴落し、文字通り「ドレスの洪水」によって都市の機能が麻痺しつつあった。
『ログ:王都の市場流通をハッキングしました。ディートリヒ領の資金が【500 ⇒ 9,999,999(カンスト)】に到達しました』
「ふぅ、すっきりした。これであの時、私にヤジを飛ばした令嬢たちへの『デバッグ(ザマァ)』は完了ね」
領地倉庫に山積みにされた金貨を眺めながら、私は冷たい紅茶を一口すする。
溢れたドレスの苦情を言おうにも、彼らが買ったのは出所不明の密輸品という扱いにしているため、私へたどり着くルートはない。
するとその時、屋敷の防衛システムがけたたましくアラートを鳴らした。
[Warning] Aggressive entities detected: Royal Knights x 100 approaching the Border.
「あら、カイル王子の差し金かしら? 近衛騎士団が来たみたい」
窓の外を見ると、ディートリヒ領の境界線に、重装甲に身を包んだ王都の騎士たちがずらりと整列していた。先頭に立つのは、カイル王子の側近でもある傲慢な騎士団長だ。
彼らは拡声の魔導具を使い、屋敷に向けて傲慢に言い放った。
「ルクレツィア・ヴァン・ディートリヒ! カイル殿下の命により、王宮へ同行してもらう! 抵抗すれば力ずくで——」
私は窓から身を乗り出し、パチンと指を鳴らしてコンソールを開いた。
「アネット、お茶のおかわりを淹れて。……ちょっと、不法侵入者の『配置データ』を書き換えてくるから」
ゲームの基本。オブジェクトは、正しい座標に配置されていなければ、奈落へ落ちるか——あるいは「世界の天井」に引っかかる。
[Input] /teleport_object --target=Royal_Knights --destination=Coordinate_Sky_Milia
「聖女様が寂しがっているでしょうから、皆様でお側へ行って差し上げなさい」
エンターキーを叩く。
ドンッ! という奇妙な空間の歪む音と共に、境界線にいた百人の騎士、そして彼らが乗っていた馬や武器のすべてが、一瞬にしてその場から「消滅」した。
遥か上空。
時速数百キロで今も地球を周回し続けている「ミリア衛星」の周りに、突如として百人の騎士たちがワープしてきた。
彼らはミリアの超高速回転が巻き起こす強力な引力に捉えられ、衣服や鎧が次々と絡みつき——
「うわあああーーー!?」
「殿下ーーー! 聖女様が、聖女様がめちゃくちゃ回って——痛い! 鎧がぶつかる!」
騎士たちはミリアを中心とした「人間の輪」を形成し、彼女と一緒にものすごい速度で夜空を回り始めた。
王都から見上げれば、まるで一等星の周りを無数の小惑星が公転しているかのような、実に神聖な天体ショーの完成である。
「よし、サーバーの負荷も問題なし」
私は満足して窓を閉めた。
王都の戦力の要である近衛騎士団を、ただの「衛星のデコレーション」に変えてやったのだ。カイル王子がこれを知ったら、一体どんな顔をするかしら。
「お待たせしました、お嬢様。新しいお茶です」
「ありがとう、アネット。……さて、次は王都の心臓部を直接叩きに行きましょうか」
悪役令嬢による世界のデバッグは、まだ始まったばかりだった。




