第二章:デバッグモード、起動。
王都から馬車で三日。私が「追放」という名の強制イベント(ただしバグで馬車の車輪が時折九十度に傾いていた)で送り込まれたのは、辺境にあるディートリヒ公爵家の旧領地だった。
緑豊かな自然、と言えば聞こえはいいが、要するに未開拓のド田舎である。
「お嬢様、本当にこちらでよろしいのですか……?」
私に付き従ってくれた唯一の侍女、アネットが不安そうに周囲を見回す。
目の前にそびえ立つのは、数十年は放置されたであろう古びた屋敷。壁にはツタが絡まり、庭の噴水からは水ではなく、なぜか透明な「NO DATA」という文字が書かれた謎の立方体がポロポロと湧き出していた。
「ええ、最高よアネット。ここなら誰の目も気にせず、開発に専念できるわ」
私は満足げに頷いた。
ゲーム『恋する乙女と光の聖女』において、この辺境領は「バグの廃棄区画」として設定されていた。前世の開発末期、納期に追われたチームが、消去しきれなかったエラーオブジェクトや没データを「とりあえずプレイヤーの行かない僻地に埋めておけ」と投げ捨てたゴミ箱、それがこの土地なのだ。
つまり、私にとっては宝の山である。
屋敷の一室に入り、鍵をかける。
私は誰もいない部屋の中心で、右手を前に突き出し、人差し指と中指を虚空に向けてスワイプした。
「コンソールコマンド、オープン。認証コード:SYS_ADMIN_LULU_99」
『——Access Granted.』
脳内に、前世で聞き慣れた無機質なシステム音声が響く。
次の瞬間、私の目の前に淡く光る半透明のキーボードと、開発者用の操作画面が展開された。
(キタ……! やっぱり悪役令嬢の固有スキル枠に、開発特権(管理者権限)が割り当てられてる!)
この世界に転生した時、ステータス画面の端に見つけた「隠し文字列」。それは私が前世で仕込んだ、緊急時用のバックドアだった。
画面には、この世界の「裏データ」が克明に映し出されている。
現在のルクレツィアのステータスは、王都を追放されたことで【名声:0】【資金:500】。どん底である。
(さて、まずはこのボロ屋敷の修繕からね。素材を集めて大工を雇って……なんてテンプレな領地経営、やってられるもんですか)
私はキーボードを高速で叩く。
[Input] /create_object --type=furniture_luxury_set --count=1
[Input] /modify_environment --target=mansion_interior --clean=true
『コマンドを実行します』
パチン、と指を鳴らす。
瞬間、部屋を覆っていた埃や蜘蛛の巣が一瞬で消滅し、煤けていた壁紙が最高級のシルク製へと「上書き」された。さらに、誰も触れていない床から、王宮の客間にあるような豪奢なソファーと大理石のテーブルがヌッと生えてくる。
「ふふ、これぞ職権乱用。最高ね」
通常なら数ヶ月と数百金貨がかかるリフォームを、わずか数秒のコード入力で終わらせる。これぞ「仕様」を知る者の特権だ。
しかし、私がコンソールを閉じようとしたその時。
画面の隅に、ピコピコと激しい警告音が鳴り響いた。
[Emergency] Raid Event Warning: "Gorgon-Spider" (Lv.45) is approaching.
(は? レイドボス……!?)
窓の外を見ると、地響きと共に、山の向こうから巨大な八本脚の魔獣——ゴルゴン・スパイダーが姿を現した。口から石化の毒液を吐き出し、すべてを食い荒らす凶悪なモンスターだ。
この辺境の適正レベルは本来15前後。レベル45のボスが湧くなど、あからさまな配置バグである。
「お、お嬢様! 化け物です! 山からとんでもない大きさの蜘蛛が……!」
アネットが悲鳴を上げて部屋に飛び込んでくる。
「落ち着きなさい、アネット。お茶でも淹れて待っていて」
私は優雅に微笑み、再びキーボードに向き直った。
本来なら、主人公たちが血反吐を吐きながらパーティを組んで戦うボスだ。現在の私のレベルは1。まともに戦えば一瞬で塵になる。
だが——これはクソゲーなのだ。
(確か、このゴルゴン・スパイダーのプログラムコード、前世で後輩の新人エンジニアが書いて、そのまま放置されたっけ。……そう、致命的な「属性反転の記述ミス」を残したままでね)
私はボスのステータス画面を開き、その「バグ」を探し当てた。
【特性:石化毒(周囲の生命体の防御力を毎秒50%低下させる)】
(これよ。本来なら「低下(Decrease)」にするべき数値を、あいつは間違えて「上昇(Increase)」のマイナス符号で処理してた。つまり——)
私は窓を開け、迫り来る巨大な蜘蛛を見据えた。
蜘蛛が大きく口を開け、屋敷に向けて紫色の「石化毒」をブレスのように吹き付ける。
「キャーーーッ!」
アネットが目を覆う。
激しい衝撃と、紫の霧が屋敷を包み込んだ。
……しかし。
「え……? 痛くない、です?」
アネットが恐る恐る目を開ける。
屋敷のガラス一枚割れていない。それどころか、霧を浴びた屋敷の壁が、神々しい金色のオーラを放ち始めていた。
『ログ:石化毒のバグ増幅により、ディートリヒ邸の物理防御力が【2^{31}-1(オーバーフロー最大値)】に達しました。あらゆる物理・魔法攻撃を無効化します』
「よし、物理エンジンがバグったわね」
マイナスとマイナスが掛け合わさり、数値が限界を突破したのだ。今のこの屋敷は、神の攻撃すら通じない「絶対無敵の要塞」と化していた。
さらに、私はコンソールに最後の一行を打ち込む。
ターゲット:ゴルゴン・スパイダー。
コマンド:/delete ではない。バグを突いて、もっと「効率的な処理」をする。
[Input] /force_status --target=Gorgon_Spider --state=Fall_Forever
「消えなさい」
私がエンターキーを叩いた瞬間。
ゴルゴン・スパイダーの足元の地面が、一四角形(1タイル)だけ「真っ黒な空間」に変形した。ポリゴンが欠落した、世界の外側へと繋がる「奈落のバグ穴」だ。
「ギシィッ!?」
蜘蛛は悲鳴を上げる暇もなく、その穴へとストンと落ちていった。
この世界には落下の終着点がない。あのボスは今頃、世界の裏側の暗黒空間を、秒速数百キロで永遠に落ち続けていることだろう。処理落ちはしないように設定したから、サーバー(世界)に負荷がかかることもない。
『ログ:エリアボス「ゴルゴン・スパイダー」の消滅を確認。経験値:120,000を取得。ルクレツィアのレベルが 1 ⇒ 42 に上昇しました』
『ドロップアイテム:【魔王の絹糸】【時空の魔石】が領地倉庫に格納されます』
一瞬にして、王都の近衛騎士団長を凌駕するレベルに到達してしまった。
「さて……」
私は溢れ出る魔力を感じながら、ふんわりとソファーに腰掛けた。
「素材も手に入ったし、このバグアイテムを使って、そろそろ王都のあのバカ王子たちに『嫌がらせ(デバッグ)』でも仕込みましょうか」
その頃、王都では——。
「ヒロインのミリアの回転が未だに止まらず、王宮の天井を破壊して成層圏へ飛び去った」という大パニックの報が、カイル王子の元に届けられていることなど、私はまだ知る由もなかった。




