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名前を返す夜  作者: reika1021


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9/10

第9章:夜にほどける理由

朝の管理室には、湿った紙を乾かした後のような匂いが残っていた。外は晴れているのに、窓際の光にはまだ雲の白さが混じり、受付台の角をやわらかくぼかしていた。透花は扉を開け、胸元の名札がきちんと留まっていることを指ではなく、肌の感覚だけで確かめた。


机の上にはいつものように拾得物が置かれていた。白いカードケース、細い革ひも付きの鍵、濃い緑色の手帳、折りたたまれた薄いスカーフ、雨に濡れて乾いたような封筒。どれも誰かの手を離れ、管理室の朝の光の中で少しだけ他人行儀な顔をしていた。


透花は受付票をめくった。名前欄に視線を置くたびに、以前の自分なら気づかなかった小さな緊張が胸の底で起こった。水篠朔の名前はなかった。


なかったことに、今朝は少しだけ息を吐けた。


彼が来ないことに慣れたわけではない。名前がない棚にも空欄の受付票にも、もう何度も揺さぶられてきた。しかし、昨夜誰もいない管理室で彼の名前を最後まで呼んだせいか、今日はその不在を少し違う形で受け止められる気がした。


水篠朔。


声に出したその名前は夜の室内に落ちたまま消えたはずだったが、朝になっても喉の奥に薄く残っていた。紙の上の名前でも窓口の呼称でもなく、自分の声を通った音として。


透花は、白いカードケースに保管番号を貼って棚の上段に置いた。指先は落ち着いていた。少なくとも、そう見えるように動かすことはできた。


名札は胸元にある。


落とした名札を彼が拾い、直し、返してくれた。そのことは透明な板の奥に、静かに染み込んでいる。仕事用の名前がもう、完全には仕事用だけでいられないことを透花は知ってしまった。


開室のランプを点けると、窓口の小さな明かりが灯った。廊下からはまだ人の足音がほとんど届かず、建物の奥で配管を水が通る音だけが細く響いている。東京の朝は外に出れば騒がしいのに、この管理室の内側だけがいつも少し遅れて世界に参加する。


最初の来訪者は手帳を探しに来た人だった。透花は表紙の色と中に挟まれた写真の有無を確認して棚から緑色の手帳を取り出した。相手はそれを受け取ると表紙を撫でて「昨日の自分が戻ってきたみたいだ」と小さく言った。


「こちらでお間違いないでしょうか?」


「はい、これです。よかった」


「受領のご署名をお願いします」


短い手続きの中にも、生活の重みはある。手帳一冊で、予定だけでなく忘れたくない日や言えなかった言葉まで、思い出すことができるのかもしれない。透花は、その人の指先が表紙に残した温度を見ないようにして確認書をファイルへ入れた。


次に来た人は革紐付きの鍵を受け取りに来た人だった。透花は鍵を差し出しながら少しだけ胸の奥が揺れるのを感じた。鍵を見るたびに朔が言った「今日は帰れます」という言葉が蘇ってくる。


「助かりました。これがないと部屋に入れなくて」


「見つかって良かったです」


その声は穏やかに出たが、言い終えた後、透花は自分の声の奥に別の記憶が混じっていることに気づいた。誰かの鍵を返すたびに、朔の夜を完全に切り離すことはできなくなっていた。


昼に近づくにつれ、窓の外の光は少しずつ厚みを増し、通りを走る車の影は壁に短く滑り、遠くの工事音は乾いた空気の中で小さく響く。管理室の金属棚は朝よりも温まり、触れるとわずかに手のひらに熱を返した。


透花は封筒の中身を確認し、受付票に必要事項を書き込んだ。封筒の中には、古い建物の間取り図のコピーが入っていた。拾得場所は保管センターにほど近い路地の奥だった。


持ち主欄は未確認だった。


紙には、玄関、廊下、窓、台所、寝室らしい四角い区画の線がいくつも引かれており、これから誰かが暮らすかもしれない場所を紙の上で先に見ているようだった。


透花はふと、朔の仕事を思い出した。古い建物を見に行き、壁の傷や窓の閉まり具合を確かめる仕事。人が暮らす前の部屋を見て、後で困らないようにする仕事。


自分の生活のものをこぼしながら、誰かの暮らしの入口を整えている人。


その矛盾が今日は前よりも苦く胸に残った。だらしないだけならこんなに気にならなかったかもしれないが、彼の忘れ物にはいつも単なる不注意では片付けられないような、乾いた跡があった。


昼食は管理室の奥で済ませた。包みを開けると、焼きのりの香りと冷めたご飯の匂いがほんのりと広がる。透花は一口ずつ食べながら、窓口に誰もいないことを意識しないようにした。


今日は来ないかもしれない。


そう思っても胸は以前ほど強く沈まなかった。彼が来ない日もあるし、来る理由がない日もある。そういうことを少しずつ受け入れ始めている自分がいた。


ただ、受け入れることと平気でいることは違う。


透花はお茶を飲み、喉に残った海苔の香りを流した。昨日の夜、誰もいない管理室で彼の名前を呼んだ時の感覚が戻ってくる。「水篠朔」。声に出した後、後悔はなかった。


そのことが、まだ少し怖かった。


午後の管理室にはいつもより細かな問い合わせが多く、拾ったものを届ける人、以前届けたものの状況を尋ねる人、別の窓口と間違えて訪れる人などがいた。透花は一つひとつの問い合わせに丁寧に答え、相手の言葉の速度に合わせて返答した。


仕事はできている。できているからこそ、ふとした隙間に彼の名前が入り込む。


白いカードケースを返したあと、透花は受付台に置いたペンの先を見つめた。声にできる名前と声にできない名前、仕事で呼ぶ名前と仕事では呼べない名前。その境目は最初に思っていたよりずっと薄い。


廊下から足音が近づいてきたのは、外の光が少し黄色くなり始めたころだった。透花は書類から顔を上げた。足音は急いでいないが、どこか迷いながらも引き返さない歩き方だった。


ベルが鳴った。


水篠朔が立っていた。


今日は何かを持っていた。小さな封筒でも透明な袋でもなく、薄い紙の束を二つ折りにしたものであった。彼の顔にはこれまでのような困った笑いはなかった。


「こんにちは」


「こんにちは。ご用件をお伺いします」


透花の声は少しだけ遅れた。彼が来たことへの驚きよりも、彼が何かを決めてきたように見えたことの方が胸に響いた。


朔は紙の束を窓口に置いた。それは、アクリル板の下の隙間を通せるほど薄かった。透花はそれに手を伸ばさず、彼の顔を見た。


「これ、忘れ物ではないんです」


「はい」


「でも、ここに届いていました」


透花は紙を受け取った。そこには昼に見た間取り図と同じ建物名が記されており、拾得票にあった封筒の中身と関係があるのだろうとすぐに分かった。


「先ほど、似た資料が届いています」


「たぶん、それと一緒です。僕の会社の案件で、現地で確認していたものです」


「水篠様のものですか?」


「会社のものです。僕が持っていたので、僕の管理不足ですけれど」


彼はそう言って小さく息を吐き、笑わなかった。透花は昼に保管した封筒を取り出し、受付票を確認した。


「拾得場所は近くの路地です」


「はい、現地から戻る途中です」


「では、こちらも合わせて確認します」


透花は手続きに入ろうとした。紙を確認し、保管番号を合わせ、返却の書類を用意する。業務の流れに戻れば落ち着けるはずだった。


しかし、朔は窓口の前から動こうとせず、いつものように書類を書こうとする前に少しだけ黙っていた。


「今日はちゃんとなくしたんですね」


透花は思わずそう言ったが、言ってからしまったと思った。失くしてほしいと思っていたわけではないのに、その言葉には親しさのようなものが混じっていた。


朔はようやく少し笑った。


「ちゃんと失くした、という言い方は初めて聞きました」


「すみません」


「いえ、合っています」


彼は窓口の端に視線を落とした。


「今日は、失くしたことに気づいてきました」


透花は書類を持つ手を止めた。その言い方がいつもと違っていた。


「どういう意味ですか?」


「前は失くしてから困ってここに来ていましたが、今日は失くしたことに気づいたときにここへ来ればいいと思いました」


それは自然なことのようでいて、少し違っていた。困ったから来る。探すために来る。返してもらうために来る。それだけなら、それは業務の範囲だ。


しかし、「ここへ来ればいい」という言葉には、物の返却以上の場所としての意味合いがあった。


「管理室ですから」


透花は言った。


「届いていれば、お返しできます」


「はい」


「届いていなければ、確認します」


「はい」


「それ以上は」


言葉が止まった。それ以上は、何なのか。できないのか。言えないのか。透花自身にも分からなかった。


朔は静かに待っていた。急かさない。最近の彼はそうやって、透花が言葉を見つける時間を待っていた。それが優しさなのかずるさなのか、まだ決めかねていた。


「それ以上は仕事ではありません」


透花はようやく言った。


朔はうなずいた。


「分かっています」


「本当に?」


少しだけ問い返してしまった。朔は、その疑問符に目元をわずかに動かした。


「分かっているつもりです。でも、分かっていることとやめられることは、違うようです」


透花は返事をしなかった。自分にも同じことが言えると思ったからだ。彼の名前を心の中で呼ぶこと、窓口に彼が立つ気配を想像すること、忘れ物がないほうが良いと分かっていながら、彼が来ない日は空白を感じてしまうこと。


分かっていても、止められないことがある。


透花は保管棚へ行き、封筒を取り出して窓口へ戻った。紙の束を合わせると、建物の間取り図と現地確認のメモがひとつにそろった。


「こちらでお間違いないか、ご確認ください」


「はい」


朔は資料を受け取り、紙を開いて目で追った。そこには、部屋の寸法や窓の向き、古い壁の傷の位置が細かく書かれていた。彼の字ではないものも混じっていたが、走り書きの一部は透花が何度も見た署名の癖に似ていた。


「これです」


「受領の署名をお願いします」


透花は確認書を差し出した。朔はペンを取り、いつものように名前を書いた。水篠朔。今日は最後の一画が静かだった。力みすぎず、逃げもしない字だった。


その字を見ながら、透花は昨夜自分が声に出した彼の名前を思い出した。紙の上の名前と声に出した名前は違うけれど、どちらも同じ人につながっている。


「見ていますね」


朔が言った。


透花は顔を上げた。


「確認しています」


「それも、前より少し違って聞こえます」


「何がですか?」


「確認という言葉です」


透花は何も返せなかった。たしかに、最初の頃は確認だった。今も確認ではあるが、その中に見たいという気持ちが混ざっていることを自分でも否定しきれない。


「水篠様も、以前より失くし方が違います」


透花がそう言うと、朔は少しだけ目を丸くした。


「失くし方?」


「はい」


「そんなところまで見ているんですか?」


「見えます」


透花は静かに答えた。今日は逃げなかった。


「傘のときは困っているけれど、軽くしようとしていました。定期入れのときは見られたくないものを隠すような顔をしていました。イヤホンのときは片方だけ残すことに慣れているようでした。鍵のときは本当に困っていました」


透花は、そう口にしながら自分がどれほど彼を見ていたのかを知った。言葉にして初めて、記憶の細かさが怖くなった。


朔は黙って聞いていた。窓口の向こうで資料の端を指で押さえたまま。


「今日は?」


彼が聞いた。


透花は少し迷った。


「今日は、失くしたものを理由にしすぎない顔です」


朔の目が静かに揺れた。


「それはどういう顔ですか?」


「分かりません」


「またですね」


「でも、そう見えます」


朔は資料を閉じ、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。


「蓮見さんには、もう隠しにくいですね」


その言葉は透花の胸に深く刺さった。隠しにくい。見抜いた嬉しさではなく、見えてしまった責任のようなものがあった。


「隠したいなら、見ないようにします」


「そういうところです」


「何がですか?」


「見えているのに見ないふりをするところ」


透花は受付票の端を押さえた。彼の言葉は責めているわけではないが、自分の癖をそのまま言い当てられると胸元の名札を軽く叩かれたような気がする。


「踏み込みすぎないようにしているだけです」


「はい、分かっています」


「分かっているなら」


「でも、少しだけ困ります」


「なぜですか?」


朔はすぐに答えなかった。廊下の奥で誰かの笑い声がして、すぐに消えた。管理室には紙の匂いと外から入り込む夕方前の熱だけが残っていた。


「見てほしい時もあるからです」


透花は息を止めた。


言葉はとても静かだったが、そこには今までで一番はっきりとした願いがあった。見てほしい。救ってほしいでもなく、直してほしいでもなく、ただ見てほしい。


透花はその違いをはっきりと感じた。


「私は」


声が低くなった。


「水篠様を助けることはできません」


朔は少しだけ笑った。痛そうではなかった。むしろその言葉を待っていたかのように見えた。


「はい」


「忘れ物を返すことはできます」


「はい」


「名前を確認することも、書類を整えることもできます」


「はい」


「でも、それ以外のことは」


透花は言葉を探した。救う、支える、受け止める――。どれも大きすぎて、今の自分には扱えない言葉だ。そんな言葉で彼を包もうとしたら、きっと自分のほうが崩れてしまうだろう。


「簡単には言えません」


朔はうなずいた。


「その方がいいです」


「いいんですか?」


「はい。蓮見さんに『救います』みたいな顔をされたら、逃げたくなると思います」


透花は思わず目を上げた。朔は少しだけ笑っていた。いつもの困った笑いではなく、どこか安心したような笑いだった。


「それは、私もしません」


「しなさそうです」


「できません」


「そこも、たぶんいいんです」


朔の声はやわらかかった。透花は、そのやわらかさに甘えそうになる自分を感じたが、同時に、彼の生活のすべてを抱えようとしない彼の姿勢が初めて誠実に思えた。


彼は救われに来ているわけではない。


たぶん、名前を乱しに来ているわけでもない。


なくしたものをきっかけに、なくしたままにしていた自分の一部を少しずつ見せに来ているのかもしれない。透花はそれを勝手に治さなくていい。ただ、見ないふりだけをしないほうがよい。


「何度も忘れ物をしていたのは」


透花は静かに聞いた。


「理由があるんですか?」


朔はすぐには答えなかった。資料を片手で持ち、もう片方の手でバッグの肩ひもを軽く握る。答えにくいことに答える前の、いつもの彼の様子だった。


「理由というほど、きれいなものではないです」


「はい」


「昔から、帰る前に何かを確認するのが苦手でした。鍵を持ったか、財布を持ったか、資料を入れたか。確認すればするほど、逆に分からなくなるんです」


透花は口を挟まずに聞いた。


「疲れている日は特に、物を置いたことだけ覚えていて、持ったかどうかが抜けます。部屋を出る前に、ちゃんと閉めたか、ちゃんと消したか、ちゃんと帰る準備ができているか、そればかり考えて」


朔の声は淡々としており、長く続いた習慣のように聞こえた。


「それで、外に出てから何かがないことに気づく」


「はい」


「でも、全部を確認し続けると、帰れなくなる日もあります」


帰れなくなる日。


その言葉が鍵の夜とつながった。会社の古いソファ、静かすぎる部屋、片耳だけの街の音、レシートで確かめる帰宅の記憶。ばらばらだったものが完全ではないけれど、少しだけ線を持った。


透花は胸の奥が痛んだ。けれど、痛んだからといって何かを差し出すのは違う気がした。


「そういう夜が、あるんですね」


それだけ言った。


朔はうなずいた。


「あります。でも、いつもではないです。大げさにしたくない」


「はい」


「だらしないのも、本当です」


「はい」


「でも、全部がそれだけじゃないんです」


「はい」


朔は少しだけ目を伏せた。透花の相槌が何かを急いで片づけていないことに気づいたのかもしれない。


「蓮見さんは余計な慰めの言葉をかけないですね」


「言えないだけです」


「言えないのは、言わないよりも難しい時があります」


透花は返事をしなかった。その言葉は自分にも返ってくる。呼べない名前、言えない気持ち。言わない方が良いのか、言えないだけなのか。その違いを、透花はいつも考えていた。


「水篠様」


透花は彼を呼んだ。今はまだ名字に「様」をつけるが、その先に続く名前が自分の中にあることを、彼女はもう知っている。


「はい」


「忘れ物が届いたら返します」


「はい」


「届かなければ返せません」


「はい」


「でも」


透花は少しだけ息を吸った。


「来たことまでなかったことにはしません」


朔の表情がゆっくりと変わった。驚きではなく、安堵でもなかった。長く張り詰めていた糸に、ようやく触れられたような顔だった。


「それは記録には残りませんね」


「残りません」


「でも、蓮見さんは覚えますか?」


透花はすぐには答えなかった。「覚えます」と言えばあまりにも近いし、「覚えません」と言えば嘘になる。


「もう、覚えています」


静かに言った。


朔は目を伏せて、しばらく何も言わなかった。窓口の向こうで、彼の呼吸だけが少し深くなる。


「それ、ずるいですね」


彼が言った。


「水篠様ほどではありません」


透花がそう返すと、朔は小さく笑った。そこでようやく、張り詰めていた空気が少しほどけた。


「今日は資料を受け取ったので帰ります」


「はい」


「でも、たぶんまた来ます」


「何かを失くしたら、ですね」


透花はそう言ったが、朔はすぐにはうなずかなかった。


「失くさなくても」


その言葉で窓口の空気が静かに変わった。透花は受付票に視線を落とさず、逃げないように彼の顔を見た。


「ここは用件がある方の窓口です」


「はい」


「でも」


自分でその続きを待った。彼ではなく、自分の中の言葉を。


「用件がない方を必ず追い返す場所でもありません」


朔の目がほんの少しだけ明るくなった。派手な光ではない。曇りの日の窓に細い隙間から日が差し込むような変化だった。


「それは、業務ですか?」


また彼が聞いた。


透花は少しだけ笑いそうになったが、笑わなかった。それでも、声は少し柔らかくなった。


「分かりません」


「ですよね」


「でも、今はそれでいいです」


朔はしばらく黙っていた。言葉を丁寧に扱っているのが分かった。受け取った忘れ物をすぐに鞄にしまわないときと同じように、彼はその言葉を一度だけ手の中で確かめていた。


「ありがとうございます」


「お礼を言うことではありません」


「それも、蓮見さんらしいです」


透花は目を伏せた。「らしい」と言われるほど、彼に自分を知られているのだろうか。知られていると思うのは怖い。けれど、今日はそれを完全に拒みたくなかった。


廊下の奥から別の足音が近づいてきたので、朔は資料をバッグにしまって窓口から少し離れた。仕事の時間が戻ってくる。


「蓮見さん」


彼が呼んだ。


「はい」


「昨日、名前を呼んだんですか?」


透花の体が止まった。


「誰の?」


「僕の」


彼は静かに聞いた。どうしてわかったのだろう、と透花は思ったが、すぐにわかった。自分の中で彼の名前がもう違う場所にあることを、今日の声のどこかから彼は感じ取ったのかもしれない、と。


「……呼びました」


朔の目が少しだけ揺れた。


「どこで?」


「管理室で」


「誰もいないときに?」


「はい」


「最後まで?」


透花は胸元の名札に手を当てた。彼が拾って返した名前と、自分がひとりで呼んだ彼の名前。その二つが同じ場所で静かに重なった。


「最後まで」


朔はすぐに何も言わなかった。言葉を失ったのではなく、言われたことを崩さないようにしている沈黙だった。


「聞きたかったです」


やがて、彼は言った。


透花は息を吸った。


「まだ、無理です」


「はい」


「でも、呼びました」


「はい」


「それだけです」


「それだけじゃない気がします」


「水篠様」


「はい」


「今は、それだけにしてください」


朔はうなずいた。少しだけ苦しそうに、でもどこか満ち足りたように。


「分かりました」


彼はそう言って管理室を出て行った。扉が閉まり、足音が廊下を遠ざかっていく。透花は、その音を最後まで追わなかった。追わないようにした。


次の来訪者が窓口に立ち、透花は仕事に戻った。封筒の返却、本人確認、署名。声は少しだけ低かったが、乱れてはいなかった。


夕方が深まり、管理室の光は徐々に白さを失っていく。窓の外の通りでは、帰る人たちの足音が重なり、遠くの車の音が柔らかく沈んでいく。透花は今日の記録をまとめながら、水篠朔の確認書をファイルへしまった。


今日は彼の名前が記録に残る。資料の返却として、会社の書類の受領として。


けれど、本当に残ったのはそこではない。


帰れなくなる日があるということ。確認しすぎるとかえって分からなくなるということ。レシートや片耳の音や鍵の夜が彼なりに今日までをつないでいたということ。


透花はそれを救おうとは思わなかった。


思えなかったし、思わないほうがよいとも感じた。彼の生活の乱れを恋の名で引き受けることはできない。そんなことをすれば、自分の声も彼の名前もきっと別の形で歪んでしまう。


ただ、見ないふりをしない。


来たことを、なかったことにしない。


それならできるかもしれない、たぶん。まだ自信はないけれど、透花はそのくらいの小さな約束なら胸の中で持てる気がした。


閉室に向けて管理室の棚を確認すると、封筒のあった場所は空いており、昼に置いた資料はなくなっていた。返したものは持ち主のもとへ戻ったのだ。


透花は空いた棚を見ても以前ほど置いていかれた気持ちにはならなかった。空白は、何もないだけではない。そこに戻ったものの記憶がある。返したという確かな手触りがある。


机の引き出しを開けると、奥に透明な袋が一枚残っていた。彼が返しに来た袋だ。備品として戻すべきものなのに、他の袋とは別の場所にしまったままだった。


透花はそれを取り出さず、ただ引き出しの奥にあることを確かめてから、静かに引き出しを閉めた。


夜の気配が管理室に入ってきた。外の街灯が窓に映り、アクリル板には透花の胸元の名札が淡く浮かぶ。「蓮見透花」。彼がまだ呼んでいない名前。


透花はその文字を見た。以前ならすぐに目を逸らしたかもしれないが、今日は少しだけ見ていられた。


呼ばれる準備は、まだできていない。


けれど、呼ぶ準備は始まっている。


水篠朔。


声には出さなかった。もう昨夜声に出したから、今日は胸の中で呼ぶだけでよかった。声に出さないことは逃げではなく、次へ向かうための静かな余白のように思われた。


戸締まりの前に、透花は窓口の前に立ち、彼が立っていた場所を見た。そこには何も残っていなかった。紙も資料も透明袋も。


でも、今日だけはその何もなさが少しだけ怖くなかった。


彼はまた来ると言った。なくさなくてもいい、と。透花はそれを止めなかった。用件がない人を必ず追い返す場所ではない、と自分で言っていたから。


それが何を意味するのかは、まだ分からない。


分からないまま管理室の灯りを落とし、机の影が深くなり、棚の輪郭が夜の中に沈んでいく。窓口のアクリル板だけが最後に外の光を少し拾っていた。


透花は扉の鍵をかけた。金属の音が短く響き、管理室の空気がひとつ閉じた。しかし、胸の中には閉じずに残ったものがあった。


彼を救わないこと。


彼をなかったことにしないこと。


そして、いつか自分の声で逃げずに名前を呼ぶこと。


夜の廊下に出ると、外から湿った風が細く入り込んでいた。雨が近いのかもしれない。土の匂いと遠くの車の熱が混ざり合って、東京の夜は少しだけ柔らかかった。


透花は歩き出す前に胸元の名札に触れた。今日は止めなかった。そこに自分の名前があることを確かめたかったのだ。


「水篠朔」


声にはならないほど小さく、唇だけが動いた。


名前は夜の空気には届かなかったけれど、透花の内側では確かに響いた。次に彼が目の前に立ったとき、その音を逃さずにいられるかどうかは分からない。


それでも、もう準備は始まっていた。


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