第8章:名札の裏の熱
朝の管理室には薄い熱がこもっていた。空は晴れているのに窓の外の光はどこか湿っていて、ビルの壁に跳ね返った白さが受付台の端をぼんやりと照らしていた。透花は扉を開け、まだ誰の声も入っていない室内に足を踏み入れた。
机の上には夜の間に届いた拾得物が整然と置かれていた。銀色のカードケース、折れた傘、透明なポーチ、片方だけの手袋、薄い紙袋。いつもの朝だった。いつものように誰かの生活から外れたものが誰かの名前を待っていた。
透花は受付票を手に取り、記録をはじめた。名前欄、品名、拾得場所、状態。ひとつずつ目で追い、ペン先を紙に置く。手順は体に染み付いているはずなのに、今日は指先の感覚が少し鈍かった。
水篠朔の名前はなかった。
そのことを確認した瞬間、胸の奥で何かが落ちるような感覚に襲われた。もう驚かない。けれど、慣れることもない。名前がない朝は、何も起きていないのではなく、何かを待たされている朝に似ていた。
透花は紙袋を透明袋に移し、保管番号を貼った。薄い紙が指先でかすかに擦れる。中身は小さなメモ帳で、持ち主の名前は表紙の裏に控えられていた。誰かの文字があるものはどこか生きているように見える。
名札が胸元で少し揺れた。
蓮見透花。
仕事用の白いブラウスに留めた透明な板。毎朝何も考えずにつけていたはずのものが、最近は肌のすぐ近くで小さな緊張を生む。誰かに見せるための名前で、誰かに呼ばれるための名前ではないと思っていたのに。
透花は名札を見ないまま、受付台の位置を整えた。ペンを置き、番号札の箱を開け、保管棚の鍵を確認する。視線を動かすたび、窓口の向こうに立つ朔の姿が一瞬だけ重なった。
水篠朔。
昨日、声にできなかった名前。誰もいない管理室でさえ、最後まで呼ぶことができなかった名前。その名を心の中で唱えるだけで、喉の奥が熱くなるのを感じた。
開室のランプを点けると、窓口の小さな緑が灯った。外の廊下にはまだ人の通る気配が少なく、遠くの空調音だけが建物の中を薄く流れている。透花は椅子に座り、受付票の端を指で押さえた。
今日はきちんと働く。
そう思った。誰が来ても、誰が来なくても、管理室の仕事は変わらない。拾得物を受け取り、分類し、保管し、持ち主へ返す。それだけだ。
最初の来訪者は銀色のカードケースを探していたので、透花は本人確認をし、特徴を尋ねてから棚から該当のものを取り出した。相手は安堵したように息を吐き、何度も頭を下げた。
「こちらでお間違いないでしょうか?」
「はい、これです」
「受領のご署名をお願いします」
透花は、その声に乱れがないことをどこか遠くで確認した。誰かの安心を受け取り、必要な言葉を返す。そういう距離なら、まだ保てる。
次に来た人は折れた傘を受け取りに来た。傘はもう使えそうになかったが、持ち手に小さな飾りが付いていた。相手はそれだけでも戻れば良いと言い、少し照れたように笑った。
物の価値は状態だけでは決まらない。壊れていても、古くても、なくしたくないものはある。透花は、その当たり前のことを最近になって何度も考えるようになった。
昼へ向かう光が窓口のアクリル板に薄く乗った。透明な板は外の明るさを受けると、相手の顔を少し淡くし、そこに立つ人の輪郭を現実よりも少し遠ざける。
来訪者が途切れた隙に、透花は棚の整理始めた。ポーチ、手袋、紙袋、カードケース。返却済みの欄を確認し、未返却品を手前に出す。金属棚は指先に冷たく、朝の熱をまだ受け入れていないようだった。
その時、胸元に軽い違和感があった。
透花は手を止めた。何かがいつもと違う。最初はブラウスの襟がずれているのかと思ったが、指先で胸元を探った瞬間、呼吸がひとつ抜けた。
名札がなかった。
一瞬、何をなくしたのか分からなかった。胸元にあるはずの硬い感触がない。透明な板も、留め具の小さな重さも、そこにはなかった。蓮見透花という名前が、仕事用の体から外れていた。
透花は受付台の上を見た。書類の間、ペン立ての横、番号札の箱のそば。どこにもない。椅子の足元を見て、棚の前を見て、今朝歩いた動線を目でたどる。
心臓の音が少し大きくなる。名札はただの備品だ。再発行はできる。管理室の中でなくしたのなら、すぐに見つかるはずだ。そう考えようとしても、指先が冷たくなっていく。
名前を失くした。
そんな言葉が浮かんだ。すぐに打ち消そうとしたが、失くしたのは名札であって自分の名前ではないはずなのに、胸元が空いた感覚は思っていたより深く、自分の輪郭が一枚剥がれたようだった。
受付台の下を確認し、椅子を引いて棚の隙間をのぞき込むが、床には小さな紙片やほこりが少しあるだけで透明な板は見つからない。
すると、外の廊下で足音がした。急いで姿勢を正す。胸元に名札がないことを誰かに見られるのが、急に怖くなった。名前を隠したいのではなく、名前を失くしたことを知られたくなかったのだ。
ベルが鳴った。
透花は反射的に顔を上げた。窓口の向こうに立っていたのは、配達物を持った人でも、拾得物を取りに来た人でもなく、水篠朔だった。
彼はいつものバッグを肩にかけており、手には何も持っていないように見えた。しかし、視線はすぐに透花の胸元へ行き、そこに名札がないことに彼は気づいた。
透花は一瞬だけ言葉を失った。
「こんにちは」
朔が言った。声は静かだった。昨日の余韻を持ち込まないように、少しだけ慎重に置かれた声だった。
「こんにちは。ご用件をお伺いします」
透花の声は出たが、いつもの形ではなかった。名札がないだけで、仕事用の声までどこか頼りなく聞こえた。
朔は窓口の隙間に小さな透明な板を置いた。
透花はそれを見た。
「蓮見透花」。
自分の名前がアクリル板の下の細い隙間からこちらへ返されようとしていた。透明な樹脂板に印字された文字が窓口の光を受けて白く浮かび上がっている。
「これ」
朔は短く言った。
透花は手を伸ばせなかった。自分の名札が彼の手を通って戻って来る、という事実が、忘れ物を受け取る立場をまるごと裏返してしまったのだ。
「どこに」
声が少し掠れた。
「建物の入口の近くです。植え込みの横に落ちていました」
「……ありがとうございます」
ようやくそれだけ言うと、透花は名札を受け取った。透明な板は少しだけ温かかった。外気の温度なのか、彼の手の温度なのか分からない。
名札の裏には細かな土が少しついており、落ちたときに植え込みの縁に触れたのだろう。透花はそれを指で払おうとしたが、うまくできなかった。
「拾っていただいて助かりました」
「よかったです」
朔はそう言った。いつもならここで少し笑う。困ったように、あるいは自分をからかうように。しかし、今日は笑わなかった。
彼の視線は透花の手の中の名札にあった。
「蓮見さんが失くすこともあるんですね」
その言葉は責めるものではなく、驚きに近く、どこか安心にも似ていた。透花は名札を握ったまま返事に迷った。
「落としただけです」
「はい」
「すぐに気づきました」
「はい」
「仕事に支障が出るところでした」
「そうですね」
彼はすべてを受け止めるように頷いた。反論しない。その優しさが透花にはかえって辛かった。言い訳をすればするほど、名札をなくしたことが自分の中で大きくなっていく。
「水篠様」
呼んでから、透花は自分の声に気づいた。名字に「様」をつけた、いつもの逃げ場所。けれど今日は、名札が彼の手から戻ってきたせいで、その呼び方がいつもと少し違って聞こえた。
「はい」
「どこまで見ましたか?」
「名札を、ですか?」
「はい」
「名前は見えました」
当然だった。見えなければ誰のものか分からない。透花は分かっていながら聞いていた。
「そうですよね」
「はい」
朔は少し間を置いた。
「でも、前から知っています」
透花の胸が静かに熱くなった。前から知っている。名札を見て知っていた名前。呼びかけて止めた名前。まだ声に出されていない名前。
蓮見透花。
その全体を、彼は知っている。
「知っていても、言わないんですね」
透花は言った。自分の声がどこから出たのか分からなかった。
朔は目を伏せた。アクリル板の向こうで、彼の指がバッグの肩紐に触れたが、すぐに離れた。
「言っていいのか分からないので」
「私も」
透花は名札を見つめた。
「呼んでいいのか、分かりません」
朔は顔を上げた。二人の間にあるアクリル板が今日はいつもより薄く見えた。いや、薄くなったわけではない。こちらの感覚が距離を正しく測れなくなっているのだ。
「僕の名前を、ですか?」
「はい」
「昨日、途中まで呼びました」
「呼べていません」
「でも、聞こえた気がしました」
透花は息を止めた。言わなかった名前まで聞こえたと言われると、隠す場所がなくなる。彼は責めていないが、気づかれたことがあまりにも近い。
「聞かなかったことにしてください」
「できるなら」
「してください」
「難しいです」
朔は静かに言った。声は軽くなかった。透花は名札を受付台に置いた。自分の名前が二人の間の机に横たわっている。
その光景がどこか危うかった。
いつもは胸元に固定されている名前が、今は彼と自分の間に置かれている。物として見える名前。拾われ、返され、受け取られた名前。
透花は名札をつけ直そうとして手を止めた。留め具が少し曲がっていた。落ちた衝撃で歪んだのかもしれない。指先で直そうとするがうまくはまらなかった。
「壊れましたか?」
朔が聞いた。
「少しだけ」
「見てもいいですか?」
透花は返事をしなかった。名札を彼に渡せば、もう一度自分の名前が彼の手に渡る。ただの修理のためだと分かっていても、指が離れない。
「無理なら、いいです」
朔はすぐに引いた。
透花は、その引き方にまた胸を痛めた。彼はいつも、踏み込みすぎる直前で止まる。こちらが困るのを見たくないからか、自分が傷つくのを避けているからか、それともその両方なのか。
「お願いします」
透花は言った。
透花は名札を差し出した。アクリル板の下の隙間を通って、蓮見透花という名前が再び彼のほうへ渡った。指が触れたわけではないが、名札の受け渡しだけで肌の近くが熱くなった。
朔は名札を手に取り、裏の留め具を見た。彼の指はいつものように慎重だった。傘の骨を確かめた指、定期入れの角をなぞった指、イヤホンを小さな袋に入れた指、鍵を握っていた指。
その指が、自分の名前の裏側に触れている。
透花は見ていられず、少しだけ視線を落とした。 受付台の上には、名札があった場所だけが空いていた。 自分の名前を他人に預けるというのは、こんなにも落ち着かないことなのかと思った。
「ここが曲がっています」
朔が言った。
「直せますか?」
「たぶん」
「たぶん、ですか?」
「専門ではないので」
少しだけいつもの会話の調子が戻り、透花は救われた気持ちになった。しかし、朔の指が留め具を押すたびに胸の奥で小さな音が鳴る。
「これで、いけると思います」
彼は名札を返した。
透花はそれを手にした。今度ははっきりと温かさを感じた。彼の手の温度が透明な板に残っている。自分の名前の上にその温度が乗っている。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
透花は名札を胸元に戻そうとしたが、留め具を通す手がうまく動かなかった。見られているからではない。見られていることを意識しすぎているからだった。
朔は視線を少し外し、窓口の横の壁を、わざとらしくない程度に見た。その気遣いがまた苦しい。
透花は名札をつけ直した。透明な板が胸元に戻り、蓮見透花という名前が再び仕事用の位置に収まった。しかし、もう同じではなかった。
一度、彼の手を通っている。
その事実が名前の奥に静かに残る。
「これで、大丈夫です」
透花は言った。
「よかったです」
朔は答えた。彼の声はやわらかかったが、そのやわらかさが近すぎて、透花は仕事モードに戻るために少し時間が必要だった。
「拾得物の返却として、何か記録が必要でしょうか?」
「名札は、こちらの備品ですので」
「僕が拾いました」
「拾得物としての手続きは不要です」
「そうですか」
彼は少しだけ笑った。
「記録に残らないんですね」
その言葉に、透花は昨日と同じ痛みを覚えた。彼が来たこと、透明袋を返したこと、呼べなかった名前、そして今日、名札を拾って返したこと。記録できないものばかりが増えていく。
「残りません」
透花は言った。
「でも、蓮見さんの名前は戻りました」
「はい」
「それで、十分ですか?」
透花は答えられなかった。十分なのか。
名札が戻れば仕事はできる。
名前は胸元に戻った。
けれど、彼の手を通ったことで名前は、前よりも落ち着かないものになっていた。
「分かりません」
朔は少しだけ笑った。
「最近、それをよく聞きます」
「すみません」
「謝らないでください」
彼がそう言った。それは透花がいつも言っている言葉だった。その言葉が返ってきて、胸が少しだけ揺れた。
「分からないままでも、悪くないと思います」
「私は落ち着きません」
「でしょうね」
朔はまた少し笑った。透花は反論しようとしたが、できなかった。確かにそうだ。分からないものはできるだけ早く分類し、保管棚に置き、番号をつけ、期限を決めたい。
でも、水篠朔との間にあるものには番号がつかない。
名札が戻ったのに、そのことだけが戻らない。
「水篠様は」
透花は言いかけて止まった。様をつけたことでまた逃げているように感じたが、呼び捨てにも朔さんにも進めなかった。
朔はその止まり方を見ていた。
「はい」
「何でもありません」
「今も、止めましたね」
透花は、受付台の端を指で押さえた。
「言わないでください」
「はい」
彼はすぐに引いた。言わないでと言えば、それ以上は来ない。それなのに、気づいていることだけが消えなかった。
窓口の外を人の気配が通り過ぎ、廊下の奥で誰かが書類を落としたような音がして、すぐに小さな笑い声が聞こえた。管理室の内側だけが薄い膜に包まれたように静かだった。
「僕も、言わなかった名前があります」
朔が言った。
透花は顔を上げた。
「知っています」
「聞こえましたか?」
「聞こえたわけではありません」
「でも、分かりました」
透花は黙った。彼が蓮見さんではない何かを呼びかけようとしたことが分かった。自分がその続きを待っていたことも、待っていたのに怖かったことも。
「名前を呼ぶのは」
透花は言葉を探した。
「ただの呼び方ではない気がします」
「はい」
朔の返事は静かだった。
「呼ばれたら戻れなくなる気がします」
「戻る必要がありますか?」
透花は息を止めた。まっすぐすぎる問いだった。朔はすぐに後悔したかのように目を伏せた。
「すみません、今のは」
「なしにはできません」
透花は言った。
朔が顔を上げた。
「昨日の仕返しですか?」
「違います」
「少し、似ています」
「そうかもしれません」
と言ってから、透花は少しだけ自分で驚いた。彼の言葉にそのまま返している。仕事の会話ではないが、不自然ではなかった。
朔は目元をやわらげた。小さな変化だったが、透花にはわかった。気づきすぎるのは彼だけではない。自分だって、もう彼の変化に気づいてしまう。
「蓮見さん」
彼が呼んだ。
今日の呼び方はいつもより少し低く、名札を拾って名前を返したあと、その名字が前よりも近い場所にある気がした。
「はい」
「下の名前を見てしまっているのに呼ばないのは、変ですか?」
透花は胸元の名札に目をやった。透明な板の奥で、透花という名前が静かに光っている。
「変ではありません」
「では、呼んでも変ではないですか?」
その問いにすぐ答えることはできなかった。変ではない。けれど、ただ自然というわけでもない。呼ばれたら自分はどうなるのだろう。
「分かりません」
「やっぱり」
「笑わないでください」
「笑っていません」
透花は、ほんの少し笑っていることに気づいたが、指摘はしなかった。笑われているのに、不快ではなかったからだ。
「今は」
透花は言った。
「まだ、呼ばないでください」
朔の表情が変わった。拒まれた痛みではなく、許された未来に触れたような揺れだった。
「今は、ですね」
透花はしまったと思った。言葉の中にいつかを残してしまった。消したい、けれど消せない。
「言い方の問題です」
「はい」
「深い意味はありません」
「はい」
「本当に」
「はい」
彼はうなずくたびに少しだけ笑いそうになっており、透花はそれに気づいて胸の奥が熱くなった。
「水篠様」
「はい」
「そうやって聞くのはずるいです」
「蓮見さんも、今はなんて言うのはずるいです」
透花は何も返せなかった。確かにそうだと思った。自分だけが逃げているわけではない。彼だけが踏み込んでいるわけでもない。互いに少しずつ近づき、少しずつ逃げている。
その中途半端さが、今は息の仕方になっていた。
窓口の向こうで、朔は一度だけ封筒を折り直した。中身のなくなった封筒は薄く、もう役目を終えているが、彼はすぐに捨てようとはしなかった。
「それも、持って帰るんですか?」
透花が聞くと、朔は封筒を見た。
「そうですね。捨てるタイミングを逃しました」
「またですか?」
「はい、またです」
彼は少し照れたように笑った。透花はレシートのことを思い出した。捨てるのが下手な人、そして、持ち続けることも手放すことも苦手な人。
「なくさないでください」
「封筒を?」
「はい」
「これも?」
「それも」
朔は封筒を胸のあたりに軽く当てた。
「分かりました」
そのしぐさが少しだけ子どもっぽくて、透花は笑いそうになったが、笑わなかった。しかし、口元に出たわずかな変化を、朔は見逃さなかった。
「今、少し笑いましたか?」
「笑っていません」
「さっきの僕みたいですね」
「違います」
「似ています」
そんな会話ができるようになっていることに、透花は少し遅れて気づいた。窓口の線もあるし、アクリル板もある。けれど、言葉の間に以前よりも小さな柔らかさが生まれている。
その柔らかさに、彼女は恐怖を感じた。
怖いのに、遠ざけたくなかった。
「そろそろ戻ります」
朔が言った。
「お仕事ですか」
「はい、近くの建物を見に行きます」
「今日も撮影ですか?」
「今日は採寸と確認だけです。古い部屋なので窓の閉まりが悪いらしくて」
「そういうところも見るんですね」
「見ます。暮らす人があとで困らないように」
透花はその言葉を聞きながら、鍵のことを思い出した。帰る場所、閉じる扉、開かない窓。人が暮らす前の部屋を見て、人が困らないようにするのが彼の仕事だ。
それなのに、自分の生活の細部については、よくこぼしてしまう。
その不均衡こそが、朔という人の本質なのかもしれない、と彼女は思った。
「水篠様は、人が住む場所には丁寧んですね」
透花がそう言うと、朔は少し驚いた顔をした。
「自分のこと以外は、たぶん」
「それはよくないです」
「蓮見さんに言われると、ちゃんと刺さりますね」
「刺すつもりはありません」
「でも、刺さります」
彼は笑ったが、その笑いにはどこか嬉しさが混ざっていた。透花は視線を落とすと、受付台に目をやった。自分の言葉が彼の心に届くことが、少し怖かった。
届いてほしいとも思った。
「蓮見さん」
「はい」
「名札、また落ちたら困るので」
朔は窓口の隙間の向こうから胸元を指差すような仕草を途中でやめた。触れない距離を彼はいつも守っていた。
「留め具、少し弱いと思います」
「あとで確認します」
「今も少し斜めです」
透花は胸元を見た。たしかに名札が少しだけ傾いている。自分で直そうとして、指がうまく留め具へ届かなかった。
朔は何も言わず、視線を外した。見ないようにしているのだ。透花はその配慮に気づきながら名札を直し、蓮見透花という文字がまっすぐになった。
「直りました」
「はい」
「見ていましたか?」
「見ないようにしていました」
「それは、見ていたのと近いです」
「そうかもしれません」
透花は、ため息に似た息を吐いた。怒ってはいない。困っているだけだ。そして、その困り方が、以前とは少し違っていた。
「本当に、ずるいです」
「今日はよく言われます」
「自覚してください」
「します」
朔はうなずいた。その素直さに、透花はまた言葉を失った。彼はそうやって、こちらの注意を正面から受け止めてしまう。逃げるように見えて、肝心な場面では逃げない。
「蓮見さんも」
朔が言った。
「はい」
「自覚してください」
「何をですか」
彼はすぐに答えなかった。窓口の外で午後の空気が少し動いた。通りの車の音が遠くなり、建物の中の静けさが一段と深まった。
「名前を返されたときの顔です」
透花の呼吸が止まった。
「変でしたか?」
「変ではないです」
「では、何ですか?」
朔は迷った。言えば踏み込みすぎると分かっている顔だったけれど、透花は続きを待っていた。
「大事なものを返された顔でした」
胸の中が静かに崩れていった。名札は大事なものだったのだろうか。落とすまで分からなかった。彼の手から戻ってくるまではただの業務用の板だと思っていた。
自分の名前がこんなにも大事なものだとは知らなかった。
「そう見えましたか?」
「はい」
「見すぎです」
「すみません」
「謝らないでください」
「はい」
同じ言葉を何度も繰り返しているのに、前と同じではなかった。「謝らないでください」という言葉の中にも、今日は少しだけ親しさが混ざっている。
朔は封筒をバッグにしまい、帰る準備をしているとわかった。透花は朔を引き止める理由を探しそうになったが、すぐにやめた。理由を作るのは、もう危ない。
「では、失礼します」
「はい」
朔は窓口から一歩下がり、そこで少し立ち止まって胸元の名札ではなく透花の顔を見た。
「蓮見さん」
透花は呼ばれた。
「はい」
「今は、呼びません」
透花は言葉を失った。彼は下の名前のことを言っている。今は呼ばない。けれど、消したわけではない。呼ばないという選択には呼ぶ可能性が残っている。
「……はい」
透花の返事は小さかった。
朔は静かにうなずいた。
「でも、返せて良かったです」
「何をですか?」
「名前を」
彼はそう言って少しだけ笑った。透花は何も返せなかった。名札を返しただけ。そう言えば済むはずだった。けれど、彼の言葉はそこから少しはみ出していた。
朔は管理室を出て行った。扉が閉まり、廊下の足音が遠ざかっていく。透花は、その音を最後まで聞いてしまった。
胸元には名札がある。
蓮見透花。
彼が拾い、彼が直し、彼が返した名前。透明な板は元の場所に戻ったのに、触れられた痕跡が消えない。名前を返されたことで、透花は自分の名前がもう以前と同じではないことに気づいた。
そのあとも仕事は続いた。来訪者があっては確認し、保管品を返す。透花の声は大きく乱れなかったが、名札に視線が落ちるたびに指先が少しだけ反応した。
自分の名前がそこにある。
今までは当たり前だったことが今は小さな事件のように思えた。胸元に貼られた名前は仕事のためだけではなく、誰かの手から戻ってきたものとして存在している。
夕方に近い光が窓口の下まで伸びてきて、アクリル板に映る透花の顔は朝よりも少しだけ疲れているように見えた。けれど、その疲れの中にどこか静かな熱があった。
水篠朔。
今日は心の中でその名前を呼んでも昨日ほどは怖くなかった。声には出さないが、完全に隠しているわけでもない。名前は胸の奥に置かれ、少しずつそこに馴染もうとしていた。
閉室前、透花は引き出しを開けた。奥には以前彼が返した透明袋がある。今日の名札のことと並べて考えるべきではない、と彼女は思った。しかし、どうしても同じ引き出しの奥に、彼との記録されないものがたまっていく気がした。
透明袋、折れた封筒の記憶、名札の留め具に残った彼の指先の温度。
記録には残らない。けれど、確かにある。
透花は音を立てないようにゆっくりと引き出しを閉めた。管理室の中は夜へ向かう直前の静けさに包まれていた。
窓の外では通りの光が少しずつ強くなり、建物の影が足元から伸びていく。遠くの車の音は低く響き、東京はまた夜へと進んでいく。
透花は机を片付け、受付票を揃え、棚の扉を確認した。胸元の名札が動くたびにかすかに揺れる。留め具はまだ少し頼りないが、落ちることはなかった。
落としたくない。
そう思った。名札だけではない。名前を、彼が返したものを、彼がまだ呼ばずにいてくれるその危うい距離を。
夜の管理室で透花は一人になった。ベルを切り、照明を一つ落とす。窓口の周囲だけが暗くなり、胸元の名札がアクリル板にぼんやりと映し出された。
蓮見透花。
その文字を見ながら、透花は小さく息を吸った。
「水篠朔」
今度は、声に出た。
誰もいない管理室に、彼の名前が落ちた。名字だけではなく、最後まで。声は震えていなかったが、静かすぎる部屋の中でその名前は思ったよりも深く響いた。
透花はすぐに唇を閉じた。胸が熱かった。呼べたと思うより先に、呼んでしまったと思った。
けれど後悔はこなかった。
ただ、名前が自分の声を通して少しだけ形を変えたことがわかった。紙の上の文字でも受付票の記録でも窓口の呼称でもない、自分の中から出た音として彼の名前が管理室に残った。
透花は名札に触れた。今日はその動作を止めなかった。透明な板の下に自分の名前が静かにある。
返された名前と、呼べた名前。
どちらも夜の管理室に置いたまま、透花はしばらく動けなかった。




