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兎と猫  作者: 藤原 智
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四話 ゲームの世界

 そこは、何もない部屋だった。


 部屋の中央に小さなテーブルがひとつ置かれていて、その上にガラス玉が載っている。


 室内の壁も床も、すべて木でできていた。

 それ以外には、本当に何もなかった。


 私は、その場に立ち尽くしていた。

 何をすればいいのか、どこへ行けばいいのか、何ひとつわからなかったからだ。


 しばらくして、不意にガラス玉の方から声がした。

 聞こえてきたのは、あの猫の声だった。

 何もない部屋に、たった一人でいる。

 ここがどこなのかさえ分からない。


 そんな状況だったのに、その猫の声を聞いた瞬間、私は少しだけほっとしてしまった。

 そのことがおかしくて、思わず小さく笑ってしまう。

 あの猫に安心するなんて、本当にどうかしている。

 世も末だ、なんて、場違いなことまで考えてしまった。


 私は、恐る恐るガラス玉へ近づいていく。

 その時、床に足の裏が触れるたび、ぺた、ぺた、と小さな音がした。

 そこでようやく、自分が裸足になっていることに気づく。


「これからの事説明するけど、しなくてもいいなら、後の扉から外に出るといいよ」


 私は、ほとんど反射みたいに答えていた。


「して欲しい」

「ま、そうだろうね。少し長くなるけど、いいかい?」

「うん」

「簡単に此処に戻るなら、ゲーム内のボス、魔王を倒す事。魔王を倒すと元の世界に戻れる。中では、既に多くの人間がプレイしているから、協力するといいよ」

「ま、待って。人間・・・て?」

「一万人くらい、転送させたから」

「はい?一万人?転送?」

「そう」


 一万人。

 その言葉だけが、頭の中で変に浮いて聞こえた。

 一万人って、何。

 転送って、どういう意味なんだろう。

 考えても考えても、理解が追いつかない。

 言葉としては聞こえているのに、意味が頭の中に落ちてこなかった。


「まあ、行けば分かるよ」

「う、うん」

「続けるよ。魔王を倒すだけだとダメなんだ。その場合は、僕のお願いを遂行した事にはならないんだよね。希望値と絶望値があって、希望値を100にして欲しいんだ。そうすると、僕のお願いを達成した事になるんだよ。だから頑張ってね」


 希望値。

 絶望値。


 また知らない言葉が増える。

 頭の中が、ますますぐちゃぐちゃになっていく。


 行けば分かる。


 さっきから猫は、ずっとそう言っている。

 でも、そんなふうに言われても、不安が消えるわけじゃなかった。


「絶望値を100にした場合も、お願いを達成した事になるけど、これはやめて欲しいんだ。絶望値を作りたくなかったけど、まあ、色々と僕のほうにも制約があってね。仕方なく作るしかなかったんだ。絶望値には、回数制限があるから気をつけてね。回数制限を超える度に罰があるからね。まあ、一回のプレイで一回しか出来ないから、回数制限を超える事はないと思うけど。期待値と絶望値の事、現時点で分からないと思うけど、行けばわかるよ」


 やっぱり、何を言っているのか分からない。

 分からない言葉を、分からないまま聞かされているだけで、胸の奥がじわじわ冷えていく。


 不安しかなかった。


 その時、不意に左腕のことを思い出した。

 あの、焼けつくような痛み。

 吹き飛んだ瞬間の衝撃。

 床に散った血。


 それを思い出した途端、手が震えた。喉がからからに渇く。頭の中が真っ白になる。


 また、あの痛みを味わったらどうしよう。

 また、身体のどこかを失ったらどうしよう。


 怖い。


 怖い。


 怖い。


 怖い、怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。


「ゲームの中での話しだけど。ゲームの中で死ぬと現実でも死ぬから気をつけてね」


 その一言で、心臓が大きく跳ねた気がした。


 死ぬ。

 現実でも死ぬ。


 その言葉だけは、嫌になるほどはっきり頭に入ってきた。


「怪我等を治す魔法はあるけど、死者蘇生の魔法は無いからね。あと、そっちの世界と現実世界の時間の流れには、大きな乖離があってね。まあ、そっちの世界は、現実の世界の何倍も早いから。今、君は現実とゲームの世界の中間の世界にいてね、現実世界の時間にいるんだけど、今、こうして話している時にも、ゲームの世界では、数十日、数ヶ月、経っていると思うよ。そして、罰迄の時間は、現実世界でカウントされるけど、時間感覚は、そっちの世界が基準になると思うよ?ゲームの世界では、何十年もプレイ出来るからさ、頑張って期待値を100にして、魔王を倒して欲しいんだ」


 もう、ほとんど頭に入ってこなかった。

 言葉ひとつひとつは聞こえているのに、意味として理解できない。


 ゲームの世界。

 現実の世界。

 時間の流れ。

 罰。

 死。


 大事そうな言葉だけが、ばらばらのまま頭の中を漂っていた。


 何を言っているのか、理解できない。

 理解できないまま、ただ怖さだけが膨らんでいく。


「その様子を見ると、全く理解出来てないようだね。大丈夫。行けばわかるからさ。最初は、始まりの家から始まるから、そこで、職業や名前を登録するといいよ。転職システムもああるしさ、色々やるといいと思うよ。早速行ってみようか」


 私は、ほとんど何も分かっていなかった。

 希望値と絶望値。

 それくらいしか、言葉として残っていない。

 何をすればいいのか。

 どう動けばいいのか。

 ゲームの中で何が起こるのか。

 そんな大事なことを、猫はほとんど説明してくれない。


 なんて不親切な猫だ。

 

 その瞬間だった。

 視界がふっと揺らぐ。


 次の瞬間、私はまた、見知らぬ部屋の中に立っていた。


 さっきまでいた、あの何もない木造の部屋とは違う。


 今度の空間はずっと広くて、まるで物語の中で見る“冒険者ギルド”みたいだった。


 壁も床も天井も、すべて木で造られている。太い梁が何本も天井を横切っていて、長い年月を経たみたいに飴色に艶を帯びていた。床板は何度も人に踏まれてきたように少し擦り減っていて、歩けばきしりと小さな音が鳴る。木の匂いが濃く漂っていて、少し古い山小屋みたいにも感じた。


 広い室内には、木のテーブルと椅子が所狭しと並べられていた。

 四人掛けくらいの四角い机もあれば、小さめの丸テーブルもある。椅子も背もたれ付きのものや簡素な丸椅子が混ざっていて、統一感はないのに、不思議と部屋には馴染んでいた。

 通路は一応あるけれど、人が行き交うには狭く、少し油断すれば椅子の脚に足を引っかけてしまいそうなくらい詰め込まれている。


 壁際には長いカウンターがいくつも並び、それぞれの中には人が立っていた。

 年齢も性別もばらばらで、皆どこか慣れた顔をしている。忙しそうに書類をめくる人、こちらを見て微笑んでいる人、別の誰かと話している人。まるで役所の窓口と宿屋の受付を足して、そのままファンタジーの世界に持ってきたみたいだった。


 各カウンターの前には、小さな黒板みたいな札が立てられている。

 木枠の中に黒い板がはめ込まれていて、白い文字で案内が書かれていた。


 名前登録

 変更

 そう書かれた場所の隣には、

 職業登録

 転職

 さらに少し離れたカウンターには、

 職業マスター専用

 と書かれている。

 他にも、初心者用、案内、相談窓口のような札が見えた。


 壁には大きな掲示板まであり、紙が何枚も貼られている。地図みたいなもの、注意書きみたいなもの、誰かへの連絡事項みたいなものまであって、本当にここだけで一つの拠点になっているようだった。


 室内には私以外にもたくさんの人がいた。

 テーブルで話し込んでいる人。

 カウンターで手続きをしている人。

 軽い鎧のような服を着た人もいれば、ローブ姿の人、普通の町人みたいな服の人もいる。


 ざわざわと話し声が満ちているのに、不思議と耳障りではなかった。

 ここがどこなのかは分からないのに、まるで昔からそういう場所として存在していたみたいに自然で、完成されている。

 でも、私はその入口近くで立ち尽くすことしかできなかった。


 名前登録。

 職業登録。

 転職。

 職業マスター専用。

 初心者用。


 どれも意味は分かる。

 でも、どこに行けばいいのかは分からない。


 人がたくさんいるのに、誰に何を聞けばいいのかも分からなくて、私はただ、ぎゅっと自分の服の裾を握りしめた。

 ただ茫然と立ち尽くしていると、三人、男の人二人、女の人一人が、近づいてくると、私に、話し掛けてきた。

 最初は、女の人だった。

 救われた気分がした。


「もしかして、此処に来たばっか?」

「は、はい」

「ほら、言ったじゃん!」

「見りゃあ、分かるよ。名前ねえんだしよ」


 緊張する。


「君、可愛いね」


 突然、そんな事をいわれ、顔に熱を帯びるのが分かる。恥ずかしくて、俯いた。


「リンク、ナンパすんなよ」

「うっせえな。俺は、真実を言ってるだけだ」

「私は?」

「あん?華菜は、この子の下位互換だろ」

「うわ、ひっどー!」

「まあまあ、折角だから自己紹介でも。俺は、アイゼン・フィールドフォン・ライサウッドリア・インビテンセント・直哉。よろしくね」

「なげーんだよ。直哉でいいだろ」

「うるさい。アイデンティティだよ」

「私は、華菜。よろしくね」

「俺は、リンク。よろしく。色々と教えてあげれると思うからさ、俺を頼ってよ」

「は、はい。よ、よろしくお願いします・・・。えと・・・私は、詩韻兎と言います・・・」

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