三話 腕
左腕から、焼けるような痛みが一気に駆け上がってきて、頭の奥まで突き刺さった。
「――っ、ああああああっ!!」
何が起きたのか、すぐにはわからなかった。
けれど、自分の左腕がなくなっていることだけは、嫌でも理解してしまう。
「い、いやっ、いやあああ!!」
震える右手で、必死に左腕の付け根を押さえる。
熱い。ぬるりとしていて、指の間から血があふれていく。怖い。痛い。苦しい。何も考えられない。
「う、腕がっ、私の、腕がぁぁぁっ!!」
その場に崩れ落ちて、床にうずくまる。
痛みのあまり身体が勝手に跳ねて、足先が近くのテーブルを蹴ってしまった。大きな音が響く。
涙が止まらない。
息もうまく吸えなくて、喉の奥がひゅうひゅう鳴る。
「やだ、やだよぉ、いたい、痛い」
泣きじゃくる私の耳に、不意に猫の声が届いた。
「一回だけなんだけど、腕と血を元に戻すことが出来るよ?」
その言葉だけは、不思議なくらいはっきりと聞こえた。
私は顔を上げる。涙で滲んだ視界の向こうにいる猫が、ひどく現実離れしたものに見えた。
でも、そんなことを考えている余裕なんてない。
「も、戻して!お願い!戻してぇ!」
みっともないなんて思う余裕もなかった。
ただ、この痛みと恐怖から逃れたくて、私は声を震わせながら叫ぶ。
「じゃあ、今度から僕のお願いを、ちゃんと聞いてほしいんだ」
「き、聞く!聞くから!だから、お願い!」
猫は確かめるみたいに言った。
「約束だよ?」
「や、約束する、から、早く!!」
すると猫は、まるで何でもないことみたいに告げた。
「はい。腕と血、元に戻したよ?」
「・・・え?・・・」
荒い呼吸のまま、私は目を見開いた。
左腕の付け根を押さえていた右手の下に、確かな感触がある。
恐る恐る触れてみる。指がある。手首がある。肘がある。ちゃんと、左腕がある。
さっきまで頭の奥を焼いていた激痛は、もうなかった。
ただ、床に散った血と、自分の涙だけが、あれが夢じゃなかったのだと教えてくる。
私は震える指先で、戻った左腕を何度も確かめた。
「ほ、ほんとに、戻ってる」
よく見ると、左腕に浮かんでいる数字が、48:00になっていた。
その数字を見た時、恐怖で体が震えていた。
翌朝、警察から電話がかかってくる。
もう一度詳しい話しをと。
お昼に警察に行き、また、同じ話しをして、帰る途中、猫が、いつのまにか隣を歩いていた。
そして、猫は言う。
「君を選んだのは、失敗だっかもしれない」
私を解放して欲しいと心から思った。
家に着くと、猫は、話し始めた。
「考えたんだ。君、人間を殺せないだろ?」
静かに頷くと、猫は話しを続ける。
「君達人間の娯楽にゲームていうのがあるだろ?そのゲームの中のモンスターならどうかな?これは、君に対して譲歩してるのだけれど」
「ゲーム・・・」
「そう。どうだい?」
また、何か怖い事に巻き込まれると思った。
お願いを聞きたくなかった。
私を解放して欲しいと心から願った。
「私は、もうやりたく無い」
「さっきは、あんなに何でも聞くと言っていたのに?酷いなぁ、嘘をつくなんてね。ま、痛みと混乱の中だから仕方ないか。でも、無理なんだよね。一度契約してしまったからさ。ある意味、君が僕の希望なんだよね」
「う、うぅぅぅ・・・」
涙が溢れてくる。
「私を解放してください。お願いします。お願いします・・・」
「説明しても、理解してもらえるか分からないけど、右手の小指みるといいよ」
猫にそう言われて、小指を見る。
爪の上に、見たことない様な、模様が刻み込まれていた。
「こ、これは?」
「僕との、契約の証。そう考えて欲しいな」
猫は、笑顔でそう言った。
その笑顔は、SNSなどに、“猫の笑顔“みたいな投稿をすれば、バズる気がする程、可愛らしい笑顔だった。
しかし、私には、只の恐怖でしかなかった。
手が震えていた。
「早速、本題に入ろうか?」
体が、ビクン!と震えると、心臓の鼓動が速くなる。
「次は、大丈夫だよ?ゲームをすればいいだけだからさ」
「ゲーム・・・をするだけ?」
「そう」
「ゲームするだけなら・・・」
「じゃあ、決まりだね?いいかな?」
心臓が、小ささによく揶揄われる、私の胸をノックしているのが分かる。
まるで、止めろと言っている様だった。
「無理ていうのは・・・?」
「まあ、これを断るのは出来るよ?また、別のお願いになるしね?ただ・・・」
猫は、少し考えている様だった。
「ただ・・・?」
「あ、ごめん。言ってなかったね。僕のお願いを一定期間内、と言うか、一度断って、二度目も断ると、それなりの罰があるから」
「ひっ・・・」
全身から血の気が引くのがわかる。
罰・・・。
碌な事が起きないのは分かった。
死ぬ?
死ななくても、体の欠損を免れないことは容易に想像出来た。
どうせ、やるなら。
ゲームするだけでいいならと。
自分自身に言い聞かせるしかなかった。
「分かった。やってみる。」
「本当かい!じゃあお願いするよ。すぐに準備するからさ」
テーブルに頭をつけて俯くと。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
と、頭の中でぐるぐると、言葉が回っている。
不安が襲ってくる。
そっと、頭を上げると、テーブルの上で何かをしている、猫の手と手の間に、バレーボールくらいの大きさの、ガラス玉の様な物があった。
「今から、この中に行ってもらうから」
「え?中って?」
「ま、行けば分かるからさ。じゃあ行くよ」
待って!
と言う暇がなかった。
一瞬、目の前が真っ白になる。
次の瞬間。
見知らぬ部屋らしき場所に立っていた。
そして、左腕の時間がカウントダウンし始めていた。




