二話 契約
「それじゃ、行ってみようよ」
猫に急かされて、私はびくりと肩を揺らした。
「う、うん」
「あ、そうそう、能力を使うから、待ってね」
「うん・・・」
そう言うと、猫はシルクハットのつばを手でそっと擦った。
その瞬間、帽子全体が淡い青色の光を帯びて、ぼんやりと夜の中に浮かび上がる。
「右手を見て」
言われるまま右手を見下ろすと、私の右手にも同じような淡い青色の光が灯っていた。
「その光は、君を現実世界から隔離している」
「ど、どういう?」
「理解してもらえるか分からないけど、簡単に言うと、透明になっていると考えてくれるといいよ」
「そう、言われても」
「まぁまぁ、そんなもんだから。あ、人間が歩いて来ているから、声掛けてみるといいよ?声も聞こえない筈だから」
猫に言われて顔を上げると、少し先からサラリーマン風の男の人が二人、こちらへ歩いてきていた。
私は喉を震わせながら、恐る恐る声を出す。
「すいません」
けれど二人は、私の声にも存在にも気づかないまま、そのまま通り過ぎていった。
「ね?」
「うん」
「これなら、怖くないだろ?」
「うん」
確かに、そうだった。
もし見えないのなら、何かあってもきっと大丈夫。 そんなふうに思ってしまった。
「じゃあ、行こうか」
「う、うん」
胸の奥で、心臓がどくどくと大きく鳴っていた。
まるで全力で走ったあとのみたいに息苦しい。
猫は倉庫の横にある扉の前まで行くと、そこで立ち止まった。
私が開けるのを待っているのだと、すぐにわかった。
震える手で扉を開ける。
「お、お邪魔します・・・」
中へ入ると、そこは細い廊下になっていた。
少し先で道が分かれていて、奥へ続く廊下と、二階へ上がる階段が見える。
猫は私の方を一度だけ振り返ると、迷いなく階段を上がっていった。
私は何も言えないまま、その後をついていく。
頭の中では、心臓の音だけがやけに大きく響いていた。
帰りたい。
今すぐ帰りたい。
どうして私はこんなところにいるんだろう?
二階へ着くと、階段はまだ上へ続いていた。
けれど猫はそこで止まらず、二階の一室の前で足を止めた。
「ここだよ。時間経ちそうだったからね。ここの時間を遅延させていたから、まだ大丈夫だよ」
「何を言って・・・」
「そうだね、こっちの話しだから」
猫はその場に立ったまま、じっと私を見上げていた。
開けろ、ということなのだろう。
私はゆっくりとノブに手を伸ばし、息を殺して扉を開いた。
中は、何も置かれていないがらんとした部屋だった。
この倉庫は、もう使われていないのかもしれない。 そんなことを思いかけた、その時だった。
部屋の奥に、人がいた。
最初に目へ飛び込んできたのは、四つん這いになっている男の人の尻と、大きくなった男の人の物が見えて、その下に、女の人の足が見える。
何をしているのか、理解はできた。
頭が真っ白になる。
「じゃあ、あの人間助けて」
「え?」
何をしているのかは分かる。
分かるけれど、そんなの、まさかと思った。
「恋人同士で・・・」
「恋人?ああ、違うよ?レイプて言うのかな?そういうのなんだよね。よく見るといいよ?武器を突きつけられてるだろ?下の人間」
本当にそんなことが起きているのか確かめたくて、でも近づくのが怖くて、私は戸惑いながら足を踏み出した。
もし恋人同士なら、すぐに帰ろう。
そう自分に言い聞かせながら、そろそろと中へ入る。
私と猫は見えていない。
そう分かっているはずなのに、息が詰まりそうなくらい緊張していた。
できるだけ音を立てないように近づくと、男の人は女の人の首元にナイフを突きつけていた。
「声を出すと殺す」
女の人は何度も何度も頷き、小さく、掠れた声で懇願する。
「殺さないで下さい。お願いします。お願いします」
警察!
すぐに、そう思った。
けれどそれとほとんど同時に、猫の声が耳に入る。
「じゃあ、助けてあげて?」
「ど、どど、どうやっちぇ?」
口が震えて、うまく回らない。
舌がもつれて、まともに言葉も出せなかった。
「じゃあ、力貸すからさ」
「の、能力?」
こんなやり取りをしている間にも、女の人の下着は剥ぎ取られそうになっている。
男は首にナイフを突きつけたまま無理やり引きはがそうとしていて、そのせいで首筋から血が流れていた。
早くしないと。
そう思った。
「そう。早くしないと、レイプされるよ?」
「わ、分かった」
透明になれるような力を持っているくらいだ。
きっと、今度も何かすごい能力を使ってくれるのだと思った。
「分かったって事は、契約するって事でいいのかな?」
「う、うん」
自分の身体が震えているのがはっきりわかる。
怖くて、怖くて仕方がなかった。
「じゃあ」
一瞬、シルクハットが光る。
その時、猫が笑った気がした。
ぞっとするほど邪悪な笑顔だった。
「契約出来たから」
契約。
その言葉の意味がわからず、私はただ瞬きをした。
何を言っているんだろう。
何も理解できなかった。
「じゃあいくよ?」
その言葉と同時に、シルクハットが今度は黒い光を放った。
「じゃあ、それで」
「え?それで?」
「手に握っているので」
「はい?」
左手を見ると、黒く発光する棒のようなものを握っていた。
けれど、握っているはずなのに感触がない。
まるでそこにあるのに、存在していないみたいだった。
「じゃあ、それで上の人間を殺そうか」
「はあっ!?」
自分でも驚くほど大きな声が出た。
「こ、殺す?」
「うん」
「無理!無理!無理いいい!!!」
「契約したからね?左腕見るといいよ?」
言われるまま左腕を見る。
すると腕の上に数字が浮かんでいた。
47:32
その数字は、じわじわと減っていた。
まるで、何かの時間が刻一刻と失われていくみたいに。
「こ、これは?」
「僕と契約したからね。その時間内にお願いの遂行出来ないと、罰があるんだ。そう言えば、話してなかったね。遂行後は、リセットされるんだ。そして、僕の新しいお願いがあるまでは、止まったままになるから」
「罰って・・・」
「ま、お願いを遂行すればいいだけだから。あ、空間の断絶終わるよ」
「え?」
次の瞬間だった。
急に女の人の声が、生々しい音として耳に飛び込んできた。
「助けてください!!」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
けれど次の瞬間、女の人と目が合う。
見えている。
私が見えている。
その証拠に、女の人は私に向かって必死に手を伸ばしていた。
そして、その動きに気づいた男が振り返る。
「何だ、てめぇは!!」
「あ、あの・・・」
喉が詰まり、言葉がうまく出てこない。
こんな時にどうすればいいのか、何を言えばいいのか、頭の中は完全に混乱していた。
そんな私のすぐそばで、猫が軽く言う。
「それで、刺すといいよ?すぐに死ぬからさ」
叫びたかった。
殺すなんてできるわけない、と。
でも、そんな余裕すらなかった。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
その言葉だけが、頭の中をぐるぐる回る。
「け、警察を・・・」
「殺すぞ!ボケェ!!」
「殺さないで下さい!!お願いします!!」
女の人が叫んだ、その瞬間だった。
「うるせえ!!」
男は怒鳴ると同時に、手にしていたナイフを振り下ろした。
それは、そのまま女の人の首に突き刺さった。
「かはっ」
「あん?」
男は短く声を漏らし、次の瞬間、ためらいもなくナイフを引き抜いた。
女の人の首から血が吹き出す。
身体が大きく跳ねて、痙攣するように震える。
見開かれた目。
口元から零れる血。
そして、ぴたりと止まる動き。
「はっ?」
状況が理解できなかった。
本当に、何もわからなかった。
え?
はっ?
死?
「ひいいい」
私はその場に尻もちをついた。
腰が抜けて、まともに呼吸もできない。
「あ〜あ、これは、駄目だね」
猫の声が聞こえた気がした。
でも、もうそれどころではなかった。
「おい!てめえのせいで殺しちまったじゃねえか!!」
「ひいいいい」
逃げなきゃ。
そう思ったのに、足に力が入らない。
立ち上がれない。
私は赤ちゃんみたいに床を這いながら、必死で出口を目指した。
男は立ち上がって追いかけようとしたが、ズボンも下着も足首まで下がっていたせいで、その場で派手に転んだ。
その隙に、私は這ったまま廊下へ出て、階段までたどり着いた。
けれど勢いが止まらず、そのまま階段を滑り落ちる。
痛かった。
でも痛がっている余裕なんてなかった。
上から足音が聞こえる。
男が階段を駆け下りてくる音が、どんどん近づいてくる。
立たなきゃ。
そう思った瞬間、不思議なくらい自然に身体が起き上がった。
私はそのまま外へ飛び出し、夢中で走った。
「待てや!!ボケェ!!」
背後から男の怒鳴り声が追いかけてくる。
前を見ると、信号で二台の車が止まっていた。
私は先頭の車に駆け寄ると、窓を叩きながら叫ぶ。
「助けてください!!助けてください!!」
助手席の窓が開き、中にいた女の人が驚いた顔でこちらを見る。
「ど、どうしました?」
私は振り返った。
けれど、そこに男の姿はなかった。
「救急車を!救急車を!二階で!け、警察も・・・」
そこまで言ったところで、目の前が急に暗くなった。
私は、そのまま気を失ったらしい。
目が覚めると、病院のベッドの上だった。
傍には女性の警察官がいて、事件について少しだけ話を聞きたいと言った。
今の状態で長く話を聞けるわけではないけれど、形式的に少しだけ、と。
どうして私があの倉庫にいたのかを説明する時、私は嘘をつかなければいけなかった。
でも、何をどう話したのか、ほとんど覚えていない。
混乱しているからだと警察官は言って、また後日話を聞きたいとだけ告げた。
電話番号と住所を聞かれて、その日はそれで終わった。
翌日、病院を出るとすぐに会社へ電話をした。
課長に、事件に巻き込まれて、警察の事情聴取があるので休ませてほしいと伝える。
課長は驚いていたけれど、休みをくれた。
事情聴取では、何度も同じことを聞かれた。
私は何度も同じことを答えた。
少しだけいらいらしたけれど、きっと勘違いや思い違いがないかを確かめるためのやり方なのだろうと思った。
また改めて話を聞くかもしれない、と言われ、私はそのままアパートへ帰った。
部屋で一人になると、どうしてもあの女の人の最後が頭に浮かんできた。
首から血を吹き出しながら、目を見開いていた姿。
助けを求めて、私に手を伸ばしていたこと。
私が殺してしまった。
そんな思いが胸に広がって、息が苦しくなった。
その時、課長から電話があった。
大丈夫か、と心配する声だった。
私は、起きたことを全部話した。
課長は黙って聞いてくれて、それから、落ち着くまでしばらく休めと言ってくれた。
そうして、私は一週間休むことになった。
事件から二日後。
猫がまた現れた。
何で殺さなかったのか、と猫は聞いた。
私は、人を殺すなんてできるはずがないと答えた。
すると猫は、もう少しで罰を受けることになると言った。
その時になって、私は腕の数字のことを思い出す。
左腕を見ると、
07:18
になっていた。
猫は言った。
希望を与えると同時に、贄が必要なんだと。
だから殺さないといけなかったのだと。
そんな話をしている間にも、数字は容赦なく減っていく。
そして猫は、諦めたみたいな声音で言った。
僕のお願いを遂行しないからだよ。
と。
次の瞬間だった。
左腕に、まるで爆発したみたいな衝撃が走る。
理解するより早く、左腕が吹き飛んだ。
部屋の中に、血飛沫が激しく散った。




